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近田春夫 インタビュー【後編】
進行・文:下井草秀 / 写真:Ryoma Shomura
2025.3.25
(前編からの続き)
――1976年1月、ハルヲフォンは、“マイルド・メンソール&シガレット・カンパニー”名義で、2枚組アルバム『GOODY GOODY OLDY MUSIC』をリリースします。
近田 これはね、ブッカー・T&ザ・MGズを模倣したスタイルで洋楽のヒット曲をカバーしたインストゥルメンタルの企画アルバムなんだけど、彼らがいかにも採り上げていそうで実は採り上げていない曲ばかりを注意深くチョイスした。
――ひねくれてますねえ(笑)。例えば、ブッカー・T&ザ・MGズには、『マクレモア・アヴェニュー』というビートルズのカバー集がありますが、このアルバム収録曲と『GOODY GOODY OLDY MUSIC』のビートルズメドレーとは1曲も重複していない。
近田 そうなのよ。ここで聴いてほしいのは、何といっても小林克己のギターだね。MGズのスティーヴ・クロッパーといえば、テレキャスターが代名詞なんだけど、小林は、あのペラッぺラの軽い音色をレスポールで出すんだよ。しかもあいつ、MGズは大して好きでもなくて、せいぜい何曲かしか聴いたことがない。なのに、うっかり本物のMGズかと勘違いさせてしまうようなプレイをやすやすと披露出来てしまう。あまりにも器用すぎて、観るものを感動させない(笑)。すごい男だよ。
――パーソネルも、ハモンドB3の“Booker C”を始め、すべて変名となっています。
近田 あれはいつだったっけ、ブッカー・Tが来日した時に、「Player」って雑誌で、俺と対談したことがあるんだよ。その時、このアルバム渡したんだけど、針を落としてくれたかなあ。……まあ、恐らく俺が逆の立場だったら聴かないと思うけどね(笑)。とにかく、自分の作品の中でも指折りのお気に入りなんで、このインタビューの読者のみなさんにはぜひお聴きいただきたい。
――このレコードで特筆したいのは、ジャケットをWORKSHOP MU!!の中山泰さんがデザインしてるってこと。大滝詠一さんのナイアガラ・レーベルにおける数々の仕事で知られる名匠が、はっぴいえんど系の人脈とは距離があったハルヲフォンの仕事も手がけていたというのは意外です。
近田 そうだったんだ。レコード会社任せだったから、初めて知ったよ(笑)。
――ただ、この発売年、あくまでもキングの公式記録だと1976年なんですが、従来は、1977年という説が囁かれてきたんですよね。ご本人は、どっちが正しいか覚えてます?
近田 ごめん、あんまり記憶にない(笑)。あの頃は、とにかくいろいろなことが立て続けに起きてたからさ、もはや前後関係も曖昧なのよ。
――この濃密なインタビューを前後編通して読めば、そのことについては誰もが同感しますよ(笑)。
近田 今なら5年ぐらいの間に起きるさまざまな出来事が、半年ぐらいに濃縮されていた気がする。年齢のせいもあるかもしれないけど、時代そのものの動きが激しかった。
――1976年2月に発売された南雲鈴之助と珍道中のアルバム『初姿 Chindochu Vol.1』では、2曲の伴奏をハルヲフォンが担当しています。「お姉様のバラード」は、バラードと称しつつグラムロック、「サンドイッチ」はファンクに仕上がっている。
近田 この4カ月後にリリースされるハルヲフォンのファーストアルバム『COME ON LET’S GO』の世界を先取りしたような、ケレン味にあふれたアレンジだよね。
――大半を占めるフォーキーな楽曲の中で、明らかに異彩を放っています。フロントマンの南雲鈴之助はコミックソングのシンガーで、南雲修治として「女風呂の唄」を、ドクター南雲として「ソウル若三杉」をヒットさせていますよね。
近田 ハルヲフォンがバックを務めた曲じゃないけど、このアルバムに収録された「みそ汁の唄」は、後に千昌夫が歌って大ヒットすることになるんだ。
――オリジナルは演歌のパロディ的な視点から書かれた曲だったのが、千ヴァージョンでは、善男善女が真に受けて感動することになった。ちょっと面白い構図です。ちなみに、このジャケット写真は明らかに、ドイツの写真家、アウグスト・ザンダーの有名な作品「舞踏会へ向かう三人の農夫」へのオマージュです。そういう意味でも、かなりハイコンテクストな知性が窺える。
近田 懐かしいねえ。この当時はレコードって大切なもんだったし、さらに自分が参加したレコードともなれば、繰り返し聴いたもんだよ。このアルバムをかけてくれれば、今でもその曲を口ずさめると思う。
――このあたりの時期に、近田春夫&ハルヲフォンはキングレコードと正式な契約を結ぶということですか。
近田 そうだね。1975年に出した最初のシングル「ファンキー・ダッコNo.1」は、あくまでも1枚っきりのワンショット契約だったからね。今度は、きちんと3年間の専属アーティスト契約を結ぶことになった。
――そして、1976年6月に、シングル「シンデレラ」、ファーストアルバム『COME ON LET’S GO』を相次いでリリースします。「シンデレラ」のジャケットに写る少女が成長すると、『COME ON LET’S GO』の女性になるってことなんですかね。
近田 今見ると、「シンデレラ」のジャケットって、「イカゲーム」の人形みたいだよね。どっちのジャケットも、実は俺、あんまり好きじゃなかったのよ。でも、内田裕也さんがこれにしろって押しつけるから、反対できなくってさ(笑)。裕也さん、最初は「俺がプロデュースしてやる」って言ったんだけど、やってくれたことといえば、イラストレーターを紹介したことと、LPの帯に「近田春夫 お前こそ真のロックンローラーだ」っていうコメントをくれたことだけ。そもそも、スタジオに一度も顔を出さなかった。だから、最終的には“プロモーションディレクター”というクレジットに落ち着いている。
――このアルバムの音楽的な特徴は?
近田 当時、俺は、T・レックスやデヴィッド・ボウイのプロデューサーだったトニー・ヴィスコンティのサウンドに夢中だったのよ。ということで、彼みたいに不穏なコーラスを多用した。同様に生の弦も使いたかったんだけど、予算の都合上それは叶わず、ソリーナというキーボードで代用している。あとは、ハンドクラップね。赤坂のディスコ「ムゲン」で観たアイク&ティナ・ターナーのステージで、バンド全員がパパパパパパパパとやってるのが斬新に映ったのよ。ただ、ライブだからいいものの、いざ自分たちで録音してみると、貧相でしょぼい。ひたすら音を重ねてダビングしたよ(笑)。
――同年の11月に、ハルヲフォンは『リメンバー・グループ・サウンド 1・2』なるオムニバスに参加しています。その名の通り、グループサウンズの人気ナンバーのカバー集で、ハルヲフォン以外に、神無月、オレンジ・ペコ、V.S.O.P.、清水誠というアーティストが顔を揃えている。これ、『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』ではお蔵入りになったと記されているけれど、実際はちゃんと発売されていたんですね。あの本を構成した者として、この機会を借りてお詫びいたします。
近田 申し訳ない、俺も覚えてなかったわ。このアルバムでは、オリジナルに忠実なアレンジでカバーするのを心がけたのよ。カバーっていうよりコピーだね。
――その点では、金太郎飴のように歌謡曲をパンク仕様に塗り替えた『電撃的東京』とはアプローチが正反対。なお、ここでは、ハルヲフォンの全員が曲ごとにヴォーカルを取っています。
近田 ハコバンでは、一人だけがヴォーカルやると喉が疲れちゃって続かないのよ。それで、バランスを考えて全員がヴォーカルを取れるようになった。あとさあ、コーラスもなかなか上手いでしょ。ハコでいろんなレパートリーやってる時、コーラスがまとまるようになるとすごく気持ちいいんだよね。楽しかったな。
――そして、12月には、シングル「恋のT.P.O.」をリリースします。
近田 「シンデレラ」が不発気味だったから、次は確実にヒットを狙おうということになった。この少し前から、俺は個人としてTBSの生番組「ぎんざNOW!」のアマチュアバンドのコンテストコーナーの司会を務めていたんだけど、さらに、バンドとして毎週生演奏できる枠も与えられることになったのよ。
――パフォーマンスが映える楽曲としてひねり出されたのが、「恋のT.P.O.」だったと。
近田 そう。あの曲は、郷ひろみの「よろしく哀愁」っぽく幕を開けて、クレージーキャッツの「ハイそれまでョ」みたいに盛り上がって、ロニー&ザ・デイトナスの「G.T.O.」のメロディーで締めるという構成になっている。
――それに合わせ、テレビの生演奏では、最初はおとなしいのに途中から譜面台を蹴っ飛して暴れ出すという演出が行われたわけですね。
近田 あの時分は、フォトグラファーの小暮徹さんの布教を受け、ハルヲフォンのメンバー全員が歌謡曲に狂っていたから、その影響が濃い。特に、郷ひろみとか平山三紀とか、筒美京平作品が大好きだったんだよね。そしたら、それを知ったキングの担当ディレクター、井口良佐さんが、俺を京平さんに紹介してくれたのよ。
――それが実を結ぶ形で、翌1977年8月、近田さんはソロシンガーとして、京平さんが作曲したシングル「ロキシーの夜」をリリースします。
近田 軽い気持ちで「京平さんに曲書いてもらえないかなあ」なんて言ってたら、井口さんが本当に頼んでくれて、しかも京平さんも案外サクッと引き受けてくれてさ。
――それで、バンドのキャリアとしては何だか唐突なところで、近田さんがソロ作品を発表してるわけですね。しかも、もらった曲が自分のキーに合わなかったという理由で、B面の「闇にジャックナイフ」に関しては恒田さんがヴォーカルを取り、名義も近田春夫&ハルヲフォンとなっている。
近田 行き当たりばったりなんだよ(笑)。
――ソロシングルの翌月にはバンドとしてのセカンドアルバムが出るというのも、考えてみれば戦略としては意味不明ですもんね。そのLP『ハルヲフォン・レコード』は、エドガー・ウィンター・グループを大いに意識した作品だと聞きます。
近田 さらに詳しく説明すると、エドガー・ウィンター・グループのアルバム『恐怖のショック療法』と『謎の発光物体』、そして、エドガー・ウィンターのソロアルバム『ジャスミン・ナイトドリームズ』だね。グラムとはまた違ったインチキっぽい感じがたまらなくってさ。ところが、実のところ、楽理的にちゃんと考え抜かれているサウンドだし、演奏するにも高い技術力が必要となる。でも、パッと見は下世話この上ない。その点が、俺の目指すところとも一致するなと思ってさ。
――その『ハルヲフォン・レコード』、サウンドはエドガー・ウィンター・グループを志向しながら、ジャケットにおける近田さんの出で立ちは、パンクそのものです。
近田 そうなのよ。サウンドとビジュアルに乖離があるのよ。というのも、レコーディングを終え、ジャケットの撮影に入るまでの間に、俺は急速にパンクにハマっちゃったわけ。これもまた、歌謡曲と同じく小暮徹さんが伝道師だった。小暮さんが、「ロンドンでは今、こういう音楽が流行ってる」と言って、パンクのレコードを何枚かくれたんだよ。その中でも、取り分けセックス・ピストルズには格別の衝撃を受けてさ。
――今、話題に出た歌謡曲とパンク。その二つが融合し、1978年、ハルヲフォンのサードアルバム『電撃的東京』が生まれます。その鋭い批評性から、名盤の誉れ高い作品として知られていますね。
近田 いやいや、そんな大層なもんじゃないのよ。それまでの2枚のアルバム、どちらも精魂込めて作ったんだけど、商業的にも批評的にも芳しい反応がなくってさ。その頃には、「オールナイトニッポン」のパーソナリティにも起用されて、毎回毎回歌謡曲ばっかりかけてたから、歌謡曲にもより詳しくなっていた。じゃあ、俺たちが虜になっている歌謡曲とパンクをかけ合わせればいいじゃん、っていう安直な発想が浮かび、全曲をピストルズ調にアレンジした歌謡曲カバー集を出すことにした。それだけ。
――しかし、目から鱗が落ちる発想であることには間違いない。そもそも、ロック風に歌謡曲をアレンジするという企みは、今ではそうそう珍しくもないですが、歌謡曲とロックの間に高い壁が存在した当時では、斬新この上ないアイデアだったでしょう。
近田 まあ、筒美京平のことばっかり語ってるロックミュージシャンって、他にはいなかったからね(笑)。なお、このアルバムに対して最大のインスピレーションを与えたのは、シド・ヴィシャスの「マイ・ウェイ」。こういう風に演奏すれば、どんな曲でもパンクになっちゃうんだという発見があった。
――レコーディングする上で工夫したところというと?
近田 とにかく、ピストルズの音源を研究して、このサウンドの厚みに到達するには、ギターのおんなじフレーズを何度も何度もユニゾンで重ねなきゃならないという結論に達した。ハルヲフォンの小林は、そういうことやらせたら大の得意だからさ(笑)。恐らく、5回以上は重ねたかな。位相がずれないようにかぶせなきゃいけないから、正確に弾かなきゃいけないんだ。そう考えると、ピストルズのスティーヴ・ジョーンズは、ギターがかなり上手かったということになる。後で知ったところによると、本家ピストルズのレコーディングでは、ハルヲフォンよりもギターを重ねた回数は多かったらしい。
――『電撃的東京』を置き土産に残し、近田春夫&ハルヲフォンは、翌1979年の初めに解散します。
近田 バンドというもの自体にちょっと飽きていた部分があったし、おんなじこと繰り返すのは性に合わなかったからね。
――そして、近田春夫のソロとしてのファーストアルバムである『天然の美』が、1979年5月にリリースされます。ここでは、宇崎竜童、加瀬邦彦、井上忠夫、山口洋子、若草恵といった歌謡曲サイドの大物作家が多数起用されています。
近田 これ、コンセプトがあったのよ。作詞、作曲、編曲のいずれか一つを俺がやって、それ以外の二つは、他のプロに頼む。
――どういう意図があったんですか。
近田 俺は作詞も作曲も編曲もできるじゃない? これから一人で歩んでゆくに当たり、それぞれに関し、職業作家としていかなる才能を保持しているかを示すショーケースを作ろうと思ったのよ。錚々たる作家の面々に個人的な伝手でオファーしたんだけど、みんな二つ返事で引き受けてくれた。うれしいことだったね。
――それで、職業作家としての仕事の依頼は舞い込んだんですか。
近田 いやあ、全然だったね。俺のコンセプト、誰も理解してくれなかったよ。
――目論見は外れたと。このアルバムに関して大書すべきは、イエロー・マジック・オーケストラの参加ですよね。「エレクトリック・ラブ・ストーリー」を始め、4曲において編曲と演奏を行っています。
近田 大ブレイクする直前だったから、気安く頼めたのよ。あと数カ月オファーが遅かったら、受けてくれなかったんじゃないかな。今じゃ信じられないほどコンピューターのスペックが低かったからさ、レコーディングにはとにかく時間がかかった。
――「エレクトリック・ラブ・ストーリー」では、昨年亡くなった楳図かずおさんの作詞家としての才能も堪能することができます。
近田 楳図さん自身が作詞、作曲、歌唱を行い、1975年に発表したLP『闇のアルバム』が傑作なのよ。全編を覆う虚無感がただごとじゃなくってさ。それから、その翌年に郷ひろみが歌った『寒い夜明け』、これが楳図さんの作詞なんだけど、刹那的な恋愛の絶望感を描いていてたまんないんだ。それで、俺の曲の作詞を依頼したってわけ。
――同じ1979年の8月には、楳図さんの作詞、近田さんの作曲で、新曲のシングル「ああ、レディハリケーン」をリリースします。資生堂のシャンプー「レディバスボン」のCMソングですね。
近田 この時には、YMOはもう忙しくなっちゃってて、俺の仕事を受けられる余裕はなかった。だから、矢野誠さんに、「YMOっぽくアレンジしてください」って頼んだのよ。さらに、「歌謡曲っぽいくどい要素も加えてほしい」とも伝えたら、見事、期待に応えてくれましたね。
――当時、矢野誠さんの別れた前妻であった矢野顕子さんが、その後、YMOの坂本龍一さんと結婚することを考えると、奇縁を感じますね……。さて、このシングルを最後に、近田さんはキングレコードを離れ、日本コロムビアへと移籍します。
近田 こうやって改めて振り返ると、キング時代には、本当にいろんなことがあったもんだと驚くよ(笑)。
[取材協力]
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『ゴーゴー大パーティー』シリーズ、近田春夫 関連作品を配信開始