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よみがえる喜劇王エノケンの歌声と100年前の浅草
昭和にしてもエノケンにしても考えてみればずいぶんと時空を遠く感じるかもしれない。世に「昭和レトロ」や「平成レトロ」などのブームがあるにせよ、これらは主に30年前から50年前ぐらいをテーマとしており、100年前の物はメインの「レトロ」としては随分と隔たりがある。
いまや「むかし」から「歴史」になりつつある昭和の戦前戦後期の風俗を、初っ端の企画としてエノケンとその周辺をテーマに探訪してみよう。
文:保利透
2025.8.27
あなたにとってのエノケンとは
エノケンの残した軌跡
エノケンのレコード
エノケンソングとレコードの違い
エノケンの歌声
エノケンによる明治・大正の回顧
浅草オペラの時代とエノケン
エノケンとプロテストソング
「あなたにとってのエノケンとは」
まず「エノケン」のイメージは各世代によってさまざまあると思うが、現代におけるリアルタイム世代では戦後に三木鶏郎によって作られた喜劇映画やラジオの主題歌や「渡辺のジュースの素」に代表されるCMソングが馴染み深いであろう。僕のような団塊ジュニア世代のイメージだと1982年に突如アサヒビールのCMで使用された「洒落男(原曲:A Gay Caballero)」だ。
また、明治100年からバブル前後の「元祖レトロブーム」のころまでに出そろった懐メロ音源としてのエノケン像が定着したのも30年前から50年ぐらい前と言えそうだ。
だがしかし、これら当時に流布されていたエノケン音源のほとんどが晩年に回顧作品として録音されたもので、「エノケンソング」として固定されつつも、その背景や由来は近年あまり語られることがなかった。
この度、あらためて誰にでも音源にアクセスしやすいようにとキングレコードに残した音源をサブスクで公開するにあたり、そのあたりの事情も整理しながら紹介したい。
「エノケンの残した軌跡」
「エノケン」こと榎本健一は1904年10月11日に東京青山で生まれた。成長したころに東京の歓楽街浅草六区では「浅草オペラ」が全盛期となり、これに魅了された榎本健一青年も根岸歌劇団のスター歌手である柳田貞一に弟子入りし、端役ながらもコーラスボーイとして参加した。徐々に人気を得てようやく頭角をあらわしたところに1923年9月1日の関東大震災にみまわれ浅草の興行街は壊滅してしまい、これにより大衆芸能の在り方も榎本健一青年の人生も大きく変化することとなる。
時代は昭和となり、復興した浅草では震災以前より人気を博していた映画(当時は無声映画で活動写真といった)が大衆の心を魅了し人気となり、音楽はレコードや演奏会の普及とともに西洋音楽が浸透し特にジャズ音楽が大流行。こういった西洋における最新のビジュアルとサウンドのトレンドをダイレクトに受けた新しい芸能で人気が出てきたのが浅草のレビューであり、その寵児が「エノケン」こと榎本健一であった。
端緒の「カジノ・フォーリー」から「プペ・ダンサント」そして「ピエル・ブリヤント」へと進展し、今でいうモダンでアヴァンギャルドな喜劇が東京の若者のあいだで大人気となり、更に1934年からP.C.L.(東宝の前身)によってエノケン映画が盛んに作られるようになると、全国でエノケン喜劇が認知されここに名実ともに日本の喜劇王エノケンが誕生したのである。
ここで重要な点として、P.C.L.で映画化されたり、東宝専属になり有楽町の日劇など大劇場に出演するに至るまでのエノケン喜劇の大きな要素としては、1937年に中国大陸で戦死してしまう座付き作家であった菊谷栄の作り出す脚本のアヴァンギャルドさと、更に浅草オペラ後期のスターであり、エノケンとコンビを組んでいた日本初のジャズ歌手でもある二村定一の存在を忘れてはならない。そして、彼らが去ってしまった後のエノケン劇団の笑いの質が小男英雄劇であったり、国策線に沿ったものだったりと、より時代や大衆向けに変化してきたことも重要な視点だ。
敗戦後、進駐軍の持ち込んだ最新のジャズ音楽によりエノケンの舞台や映画もより先鋭化した。しかしながら、その先鋭化により大きく呼応できたのは戦前派よりも戦後新しく登場してきた新人たちであった。
戦前に浅草で旗揚げした「笑いの王国」でインテリ層からの人気を博し、やはり戦前に喜劇王とされた「ロッパ」こと古川緑波とともに、エノケンもまた時代のトレンドに取り残されつつあった。
しかし、戦後復興と共にミュージカルなど舞台の活性化や新しく発足した各映画会社が競って繰り出した、いわゆるプログラム・ピクチャーと言われる週替わりで作られる膨大な映画、そして民間のラジオ放送開始など、戦前とはまた違った活躍の場を多く得ることとなり、そのなかで三木鶏郎などの主題歌・挿入歌などをはじめパロディーソング、コミックソング、プロテストソングを数多く残した。
さらに世はテレビ時代となり、草創期のコンテンツ不足の時代には他の往年の喜劇人とともに大活躍をしたわけだが、この間に脱疽により1952年に右足の指を、1962年には右大腿部以下を切断、さらには1957年に長男の鍈一を病で失うという悲劇もあった。
また1954年には「日本喜劇人協会」を結成し初代会長として後進の指導にも力を入れ、1960年に紫綬褒章を受章したが、1970年1月7日に65歳の人生を閉じる。これが喜劇王エノケンの駆け足でたどるプロフィールである。
「エノケンのレコード」
エノケンのリアルタイムのディスコグラフィーとしては浅草レビュー時代にコロムビアやビクターなどで幾つかレコードを残している。これらは舞台のダイジェスト的な物や、当時のコンビだった二村定一との掛け合いなどファンみやげなどの副産物と言える内容が多い。
1934年にP.C.L.で映画に主演する頃にはポリドールと専属契約をしてジャズソングなどをリリースする。これはP.C.L.の取締役をしていた阿南正茂がポリドールの社長をしていたことと関係があるようだ。しかしながら、日中戦争の始まった1937年に阿南正茂が没してしまうと、それまで年に数度公開されるエノケン映画の主題歌やジャズソングはほとんど作られなくなり、代わりに国策宣伝に則した歌謡曲を残すにとどまった。
終戦後に再び各社で新たにレコードをリリースするようにはなったが、戦前のようなエノケンの代名詞と言えるコミックソングをレコードとして残すことは少なかった。
「エノケンソングとレコードの違い」
エノケンの歌といえばどのような曲をイメージするだろうか。独断と偏見でピックアップしてみよう。
まず第一には、「洒落男(原曲:A Gay Caballero)」であろう。これはキング音源のみならず晩年に東芝音源でも残されている。しかしながら、この曲は戦前にエノケンのレコードとしてはリリースされていない。日本のオリジナル録音は1930年に坂井透による訳詞でビクターから二村定一の歌声でリリースされた。他に坂井透自身の録音など複数存在するが、エノケンの歌声として残っているのはP.C.L.映画『エノケンの千万長者』の主題歌として、「エノケンのびっくり人生」「エノケンのがっちり時代」の挿入歌として確認されているに過ぎない。また「私の青空(原曲:My Blue Heaven)」も同じ『エノケンの千万長者』などで歌われているがレコードとしてリアルタイムにリリースはされていない。
戦前におけるエノケンのレパートリーの多くは浅草の舞台で歌われるコミック・ソングであったのだが、これをレコード化しようとした場合にはコンビを組んでいて、既に地位のある著名な二村定一でリリースしようというのがマーケットとしての趨勢だったのであろう。実際に二村定一は昭和ひとケタ時代のコミックソング、エロ・グロ・ナンセンスソングの帝王と言ってよいほど夥しい珍奇なレコードやジャズソングのレコードを残している。
次に著名なエノケンソングといえば「〽美しいシトに」という歌いまわしが印象に残る「月光価千金(原曲:Get Out And Get Under The Moon)」、そして「〽ダンナ飲ませて頂戴ナ」と完全なるパロディーと化した「エノケンのダイナ(原曲:Dinah)」であろうか。
これらは当時ヒットしたジャズソングのカバーであるが、大概の場合のジャズソングは輸入当初に甘い訳詞が付され、暫くするとそのパロディーソングが流布されるというパターンが多い。エノケンのジャズソングの定型もこのヒットしたジャズソングのパロディーがほとんどで、いよいよ「エノケンソング」がレコードとしてリリースされ人々の耳に残るようになった。
これらはジャズソングそのものが当時の人々から珍奇さを持って受け入れられていた土壌を考慮せねばならない。戦前期に日本で数多くのジャズソングを紹介した日系二世歌手や日本のジャズ歌手も楽曲の軽さに比例した、時には軽薄ともいえる親しみやすい訳詞で日本の洋楽ファンの心をつかんでいたのだ。
この時代にジャズをコミックソング化した立ち位置を後年の物で例えるならば、スパイク・ジョーンズから端を発するフランキー堺とシティ・スリッカーズやハナ肇とクレージーキャッツと同じような物であると説明すれば想像がつくだろう。戦前のエノケンと劇団専属やレコーディングのジャズバンドはハナ肇とクレージーキャッツと線上で結ばれるわけである。
「エノケンの歌声」
エノケンが浅草の舞台で歌ったものの多くが相棒の二村定一らによってレコード化された時代、喜劇王となったエノケンの歌声によってレコード化されたジャズソングやコミック・ソングの時代、そして戦後に映画やラジオで耳馴染みになった三木鶏郎の鶏メロの時代、全盛期のエノケンソングのリアルはここにあった。
その後、しばらくは目立ったリリースはなく、日本喜劇人協会の会長となり後進の育成などに力を入れていた。
この当時の大きな変化として主要な音楽メディアである明治時代から昭和30年代まで活躍したスクラッチノイズの多い78回転の「SPレコード」から現代の我々がいまだに手にするビニール製でスクラッチノイズも少なく明瞭、かつ長時間収録できる「LPレコード」へと転換した。これにはSPレコード時代の一発録音という原盤製作の制約が、” くりかえし”または” 編集”のできる「テープ録音」になったことも大きく寄与している。
今回キングのアーカイブ音源からサブスクで公開されている音源のほとんどは後年になってスタジオにてテープ録音されたものをLPレコードとして発売されたものだ。足が不自由になり老いた身としては座って録音できること、何度でも繰り返しリテイクできるというのは幸いなことだったと言えよう。
この頃のエノケンの歌声というのは、戦前のSPレコードに残されているような不眠不休でこなしていた浅草の舞台時代に文字どおり喉を潰したダミ声から一変して、年を重ねたことによってにじみ出た「ゆるい声」となっている。まさに1963年に木の実ナナと共演した「おじいちゃまハイ」「出かけて出あって」のリアルな境地ともいえよう。
我々が「エノケンソング」としてイメージし、現代でもテレビやラジオときおり耳にする音源のほとんどはこのLPレコード時代の「ゆるい声」であることに注意したい。ここまで延々と綴ってきたように、この「ゆるい声」も変遷をたどるならばひとつのレコード芸術における文化であると言える。芸能史や録音史といっても過言ではないだろう。昭和の戦前と戦後という時代は人間の老いだけではなく、技術やトレンドなどにおおきなうねりがあったのだと是非感じていただきたい。
「エノケンによる明治・大正の回顧」
エノケンが落ち着いてキングレコードなどでレコーディングができるようになった時代は、顧みると明治・大正時代の音楽や音源を明瞭な音源でアーカイブされていない時代だった。SPレコードの復刻盤もまだまだ初期の段階で、アコースティック録音を転写する際の技術も、またそもそも明治・大正時代のレコードがレア盤だったり、正当に評価された録音がレコードとして当時残されなかった芸能も多い。その最たるものが「浅草オペラ」だろう。
現代の視点から見れば、浅草オペラに関するSPレコードを集大成し研究することもされているのだが、現代と当時(エノケンの晩年)との大きな違いは「まだ浅草オペラの舞台に立ったことがある歌手やスタッフが存命だった」ことであろう。
浅草オペラ時代を顕彰(検証も)するために田谷力三やエノケンがアーカイブのために駆り出されたのも必然と言える。当時の生き証人によって当時の楽曲を再現する試みである。この時代には浅草オペラだけではなく、明治・大正期に若かりし頃を過ごした歌手による俗曲やはやり歌、書生節など、その時点から振り返ったいわゆる「懐メロ」レコードとして盛んに作られた。なかでも大正時代に流行した書生節「パイのパイ節(東京節)」のエノケンによる晩年の録音は出色な出来として今なお人気が高い。
もっとアヴァンギャルドな当時の流行としては森山加代子の「じんじろげ」や、これはカバーではないが浅草オペラ出身の俳優・左卜全による「老人と子供のポルカ」などがある。当然だが東海林太郎(東海林太郎も明治・大正期のはやり歌を晩年にビクターでレコーディングしている)や藤山一郎の懐メロブーム真っ盛りの時代には更に前時代の懐メロブームがあったのだ。
「浅草オペラの時代とエノケン」
浅草オペラは、当初の目指す志としては海外のオペラの本格上演であったのだが、当時はまだ西洋音楽と言っても定期的に催される軍楽隊の演奏やジンタ、ごく限られた階級の人々が享受したクラシック音楽ぐらいで、一般大衆、特に東京一の歓楽街浅草へ集う学生、動労者、奉公人など決して高い身分や所得ではない人々には「歌劇=オペラ」への理解はなかなか難しいものがあった。そこで名作オペラの日本語歌詞による上演をしたり、または全幕通しではなくダイジェストにしたり、大衆に寄り添う浅草興行街的工夫がなされ、これが観客の心を大きく掴んだのだ。
エノケンの曲としてはオッフェンバックの「ブンブン(ブン大将)」やスッペの『ボッカチオ』より「桶屋の唄」「ベアトリ姉ちゃん」「わしゃ貴族だよ」、サリバンの『軍艦ピナフォア』より「海軍大臣の唄」など喜歌劇の曲が実に愉快だ。
『懐かしの浅草オペラ』 (「ベアトリ姉ちゃん」「わしゃ貴族だよ」「ブンブン(ブン大将)」等 収録)
『懐かしの浅草オペラ vol.2』(「桶屋の唄」「海軍大臣の唄」等 収録)
晩年の「ゆるい声」もさることながら、大正年間の浅草の座付き作家たちによる洒脱な訳詞にダイナミズムを感じる。このダイナミズムさは関東大震災で壊滅した後の浅草を含めた日本洋楽受容に大きく影響を与えていると言うのは、エノケンの音源を編年体で聴いてもお判りいただけると思う。
ちなみに1947年の東宝映画『四つの恋の物語』の第三話「恋はやさし」は浅草オペラを舞台とし、たった25年前の風俗が再現されている点が興味深いが、エノケンはその師匠の柳田貞一や中村是好ら浅草オペラ時代の俳優と共に『ボッカチオ』を劇中劇として演じている。ここで「桶屋の唄」「ベアトリ姉ちゃん」「わしゃ貴族だよ」がサウンドだけでなくビジュアルとしても再現されている。ただし、浅草オペラの再現で当時から最も近い時代に制作された映画としては1937年の松竹映画『浅草の灯』があることを付け加えておこう。
エノケンは浅草オペラ時代は主にコーラスボーイ、つまり端役としての活躍からようやく若手としての頭角をあらわし始めた頃までしか存在しなかったので、厳密に言うならば往年のスターによる回顧録音とは違った趣である。だが、当時の浅草オペラ時代を生で知る芸人による歌唱は貴重である。この当時既に浅草オペラのスターはそう多く存命ではなかったはずだ。そのなかで昭和の最末期である1988年に89歳で没するまで浅草オペラ出身の歌手として現役だった田谷力三の歌声がエノケンとともにサブスク公開となった。
浅草オペラの大衆化の過程で人気を得たのが佐々紅華や益田太郎冠者らの作による「和製オペレッタ」である。「おてくさんと木座野」のようなわかりやすく愉快な演目が浅草オペラには数多く残されている。
本格的な歌劇の上演、喜歌劇の洒脱な翻案、和製オペレッタ、これらが今回公開された音源によって当時の雰囲気を立体的に体感できるのではないだろうか。
「エノケンとプロテストソング」
エノケンと三木鶏郎の音源も数多く公開されたのだが、これらの曲の一つの特徴としてプロテストソングが挙げられる。わかりやすく解釈するなら政治や世相を皮肉った歌だ。戦前、エノケンはほかの多くの芸能人がそうしたように時局迎合の映画や歌を数多く残している。これはひとつに「職業人」であるということと、それを疑問に思うような思想つまり自由主義のとらえ方が戦後や現代と大きくかけ離れた物だという点に注意せねばならない。そういった立ち位置と自由主義のとらえ方によって戦後のプロテストソングも歌ったというのは職業人としては当然ではあるだろうが、ある意味皮肉のようにも思える。事実、昭和初期の相棒だった二村定一は戦争が激しくなるにつれ、世の中で居場所がなくなり、満洲へ渡り酒浸りで体を壊して戦後すぐに亡くなってしまった。
また、エノケンと浅草オペラ時代からの盟友だった左翼思想の強い築地小劇場出身の新劇俳優・丸山定夫はむしろ居場所を求め芝居がやりたいという熱意で国家の要請に応じ、移動演劇隊「桜隊」を率いて演劇に身を投じたが広島の原爆で亡くなってしまった。戦時下の芸能人の生き方にも様々な影を落とした時代だった。
現代において聴いてみても「これが自由というものか」「選挙くせものこわいもの」「無茶坊弁慶」などは今の世の中にオーバーラップする部分もあるが、三木鶏郎のこういった過激な批評性のある作風はNHK『日曜娯楽版』の打ち切りにつながり、そう言った事柄もまた現代に通じるものがあるような気がする。
『これが自由というものか エノケン・トリメロを歌う』(「これが自由というものか」「選挙くせものこわいもの」「無茶坊弁慶」等 収録)
三木鶏郎の繰り出すジャズを基調とした流麗かつ洒脱なメロディーは「トリメロ」という一つのジャンルを確立し、今もなお根強い人気をほこっている。いまだに世間で耳馴染みのあるトリメロのCMソングを聴いてみてもひとつの「ゆるさ」が感じられ、これがエノケンの「ゆるい声」と絶妙にマッチしやすかったのだろう。トリメロと言えばエノケン、エノケンと言えばトリメロと言っても過言ではない。戦後のエノケンの主戦場とトリメロの主戦場がラジオ、映画、ミュージカルであったことが奇しくもエノケンソングのダイナミズムを生み出すこととなったのだ。
エノケンという喜劇俳優のみに限った話ではないが、音源の固定イコール歌手イメージの固定というのはしばしば起こりうる事であり、エノケンの「ゆるい声」もこういったレコード芸術としての背景を踏まえながら是非楽しんでいただければと思う。