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黒木真由美 インタビュー【前編】
デビュー50周年を迎えた今年、これまでの全楽曲がサブスク解禁された(ギャルのメンバーだった中世古アキが在籍したキャンティの作品も併せて解禁)。新曲「想いのままに」も配信リリースされた3月25日、50年前のデビュー記念日にあたるその日にキングレコードで行われた、正に運命的なタイミングでのインタビューをお届けします。
進行・文:鈴木啓之 / 写真:Ryoma Shomura
2025.4.11
――デビューされた頃のお話から伺わせてください
黒木 まだ子供でしたからね。周りの方々に失礼がないように気をつけなさいみたいなことは言われてましたね。あの当時は楽屋が大部屋で大御所の方達ともご一緒させていただいていたので、常に緊張してましたね。デビューから3曲は『スター誕生!』の審査もされていた阿久悠先生と都倉俊一先生に曲を書いていただきました。2曲目の「感情線」の時にはプレッシャーで神経性胃炎みたいになって、1週間ぐらい辛い思いをしたこともありました。それでもデビューして半年くらいは休みがなくて大変でした。今思えばいい体験をいっぱいさせていただいたと思えますけど。
――髪型や衣装の圧倒的なビジュアルイメージがありましたが、あのエキゾチックなコンセプトはどこから生まれたんでしょうか
黒木 『スター誕生!』の時には出来てたんですよね。決戦大会の時に番組担当のヘアメイクさんが、「あなたはインディアンヘアでいきましょう」って言って作って下さったんです。デビューの時にも「なんか似合ってるからこれでいこうよ」っていうことになって。
――『スター誕生!』にはご自身で応募されたんですか?
黒木 そうです。もともと歌手になることに憧れがありました。小学校3、4年生ぐらいの時にピンキーとキラーズさんのファンだったんですよね。その後に番組が始まって、オーディションを受けてみたいなっていう強い気持ちがどんどん湧いてきまして。アイドル全盛期になっていた時ですね。 予選では山口百恵さんの曲を歌ったんですけど、人前で歌うのはめちゃめちゃ緊張しましたよ。私は福岡だったんですけど、ちょうどその予選会の時に百恵さんがゲストでいらっしゃってて、「私の歌を歌ってくれるんだ。がんばってね」って言われて。ところがしょっぱなから間違っちゃったんです。 あーこれはもうだめだと思ってたら奇跡的に通ったんです。
――本人の前で歌うのはプレッシャーでしたよね。それから決戦大会でしたか?
黒木 はい。そこから決勝大会までは半年ぐらいあって。今度は東京です。スカウトの方々からプラカードが上がればデビュー出来るみたいなことでしたけど自信もないし、余裕もなくてただただ一生懸命って感じで臨みました。 実際わーっとプラカードが上がった瞬間の光景は覚えています。「あ、これでデビューできる」と思って。それですぐにプラカードをあげて下さったレコード会社さんやプロダクションの方々との面接がありまして、最終的にキングレコードと小澤音楽事務所に決まったんです。
――それからデビューに至るまでにレッスンを受けられて
黒木 レッスンは予選会から決勝大会の間から福岡で既に受けてましたが、その後上京してからもまた。ボイストレーニングをしていた時にデビュー曲が出来てきました。そこで初めて歌ったんですが、なんだかペースが早すぎて。いろんなことがどんどん進んでいって追いつけない感じでした。その時はまだ私も中学生でしたから。14歳だったのかな。高校は希望して普通の学校に進学したので、両立させるのが大変でしたね。 学校の1つ上には百恵さんがいらっしゃったんですよ。
――デビュー当時はスケジュールもかなり詰まっていて大変だったじゃないでしょうか
黒木 もういろんなところへ行きましたね。デビューの時のキャンペーンではデパートの屋上でサイン会をやったり。今はサイン会って言わないんですよね? リリースイベントとかそういう言い方ですかね。 テレビ番組にも沢山出ました。とにかく歌番組がいっぱいありましたよね。その間に取材を受けたり。リハーサルやって、抜けて取材して、またスタジオに戻ってみたいな感じでしたよ。衣装着たままタクシーに乗って移動したりですとか。なにより若かったですから、大変だけど毎日が楽しいことの連続でしたね。
――かつての歌番組やステージではハプニング的なことがあったりしたでしょうか
黒木 NHKの『レッツゴーヤング』で歌詞を間違えてしまったことがありました。同じ歌で1番が山口百恵さん、2番を私が歌う場面だったんですけど、百恵さんがバッチリ歌われた後、間奏の時に頭が真っ白になっちゃったんです。それで百恵さんに「歌詞が飛んじゃった」って言ったら、「1番を歌っちゃえば」って言ってくださって、そのまま1番を歌ったら、もうその後が大変だったんです。当時はめちゃめちゃ厳しかったので、番組にも準レギュラーで入ってたんですけど3ヶ月ぐらい出られなくなったんですよ。NHKはオーディションで受からないと出演出来ませんでしたし、特に厳しかった印象があります。あと、日本テレビの『紅白歌のベストテン』では新人コーナーっていう枠があって、オーディションで1位を取れば、その枠が1ヶ月間いただけてたんですよ。そこでワンハーフの間奏の後の出だしがいつもとちょっと違っていて、リハーサルでは歌えてたんですけど本番でうまくいかなくて。生放送中に渋谷公会堂の誰もいない楽屋でわんわん泣きました。
――やはり生だった『夜のヒットスタジオ』にも出られたことはありましたか?
黒木 あります。沖縄からの中継の回だったんですけど、運悪く台風が来ちゃいまして。屋外にセットが組まれてたんですが、風船とかも風で割れたりして使えなくなっちゃった。それで、ディレクターさんやプロデューサーさんがいらっしゃる狭いコントロールルームみたいなところで歌ったんです。番組史上に残るアクシデントだったみたいで。その時も百恵さんが一緒でしたね。あと五木ひろしさんとかアグネス・チャンさんですとかもいらっしゃいました。
――4枚目と5枚目のシングルは加瀬邦彦さんの作。その間に出されたアルバム『12のらくがき』には山下達郎さんが初めて人に書き下ろしたという2曲が入っていましたね
黒木 「恋人と呼ばれて」と「北極回り」ですね。山下達郎さんはレコーディングの時スタジオにもいらして、その場でコーラスを入れて下さったんですよね。「北極回り」は去年のライブでも歌わせていただきました。
「まわれ風車」の作詞は岩谷時子さんだったんですよね。阿久先生や都倉先生の曲もそうですけど、本当に財産だなと思っています。