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今 陽子 インタビュー【前編】
文:鈴木啓之 / 写真:橋本紗良
2025.12.4
――音楽の道に進まれたのはご家庭の環境などもあったのでしょうか
両親の影響もあったと思いますけど、やっぱり小さい頃から音楽が好きでした。物心ついてからは有名なところではポール・アンカ、ニール・セダカのポップスの時代。女性だとコニー・フランシス、シルヴィ・ヴァルタンやフランス・ギャルも。どちらかといえばフレンチよりはアメリカンポップスの方が主流でしたけど。家にレコードもあったし、ラジオのFEN(※在日米軍向け放送)をよくよく聴いてましたね。ジャズではチェット・ベイカーが好きで、大人になってからもずっと聴いてます。デレーッとしたジャジーな音楽が好きで、だいぶませた子供だったと思います。アイドル系には全然興味がありませんでした。
――その頃、将来は歌手になりたいというようなお気持ちはありましたか?
歌が大好きでしたから、レコードをかけながら一緒に歌ったりして、下手の横好きだったんですけど、そっちの方の関係に行けたらいいな、くらいの気持ちはありましたよ。それで歌って踊ってお芝居してっていうので一番手っ取り早い宝塚に憧れました。私は愛知県にいたので、東京よりも近いし、中学を出たら宝塚音楽学校へ行きたいなと思う様になっていきましたね。もしも行ってたら男役のトップスターになってたかもしれません。鳳蘭さんとか大地真央さんとか天海祐希さんとかとご一緒にお仕事すると、絶対そうだったろうと皆さんから仰っていただいたりして。
――憧れていた宝塚のスターはいらっしゃいますか?

那智わたるさん、古城都さん、上月晃さんですとか。ゴンちゃんと呼ばれて親しまれていた上月さんは後にミュージカルでご一緒しました。娘役も演られた淀かほるさんも、『屋根の上のバイオリン弾き』で私が長女の役だった時にお母さん役でした。もっと遡ればやっぱり越路吹雪さんですよね。今の若い方は越路さんが宝塚にいらしたことはもう知らないでしょうけれども。そんな皆さんを観ながら、私も宝塚で歌や踊りの基礎をマスターして願わくばトップスターになり芸能界へ入りたいと思い始めた矢先、中学1年の時にいしだあゆみさんがイベントで名古屋へいらっしゃって、そこでスカウトされたんです。
――たしか、その時はお父さまが司会をされていたと伺っております
本職ではなかったんですけど、広告の仕事をしていた関係で父が司会だったんですね。それで楽屋から入れてもらって、17歳のいしだあゆみさんに初めてお会いしました。話しているうちに意気投合して、当時のマネージャーさんから「君、芸能界に入ってみる気はない?」って声かけてもらって。それがちょうどあゆみさんがいずみたくさんの事務所を辞める時で、次の歌手を探していたナイスタイミングだったんです。話がトントン拍子で進んでいずみたく先生にお会いすることになって。中学2年の2学期にはもう上京してました。
――当時のいずみたくさんの事務所(=オールスタッフ)は、どんな雰囲気でしたか?
その頃は松山英太郎さんや、まだ田辺エイコの名前で歌っていた朱里エイコちゃんくらいしかいなくて、由紀さおりさんや佐良直美さんは私が入ってからですかね。篠ひろ子ちゃんも一緒くらいだったかな。アーティストはまだあまりいませんでしたけど、コマーシャルフィルムやコマーシャルソングでは有名な会社でした。オールスタッフという名の通りで、すぎやまこういち先生、川口真先生、山上路夫先生、山川啓介先生とお歴々がいらしてすごかったですね。
――いずみたくさんに最初に会われた時はどんな印象でしたか?

まだ中学生の時ですからね。純粋に「ああ、この人がいずみたく先生か!」っていう感じでしたけど、たく先生直々のレッスンというのはあまりなかったんですよ。とにかくほかにも先生がいっぱいいらっしゃるので。今もライブをやられてる渋谷毅さんですとか、お亡くなりになってしまいましたけど大柿隆さんや松岡直也さん、それから世良譲パパからジャズを習ったりしました。いずみたく先生は曲は作られますけど、アレンジは周りにたくさんいらした優秀なアレンジャーさんたちに任されていたわけですね。
――デビュー曲ももちろんいずみたくさんの曲でしたね。ビクターからの「甘ったれたいの」
いつも言ってるんですけど、これが大っ嫌いで(笑)。売れるわけないと思ってましたから。岩谷時子先生といずみたく先生、大先生お二人がなんでこの曲を私に? と思いましたね。当時は山本リンダさんの「こまっちゃうナ」がヒットしていたし、ファッションもツイッギーのミニスカートが流行っていました。そこからの発想で流行に乗ったようです。ところが私にはそういう可愛らしい曲がまったく合わなかったということですね。オールスタッフにはアイドル歌手がいなかったからこそ、私に力を入れて下さったんでしょうけど。芸能ニュースなんかにもずいぶん出ましたし、大磯ロングビーチでキャンペーンをやったりもしましたよ。
――カップリングの「素敵なあいつ」の方が後のピンキーとキラーズさんっぽい曲でした
そうなんです、そっちの方が好きでA面にして欲しいくらいでした。初代のジャニーズが『太陽のあいつ』というドラマで主題歌を歌っていて、私も出演していたので「素敵なあいつ」は挿入歌だったんです。営業とかキャンペーンではいつもそっちばっかり歌ってました。それ以来皆さんと仲良くなって、あおい輝彦さんとは今でも一緒にディナーショーをやったりしてます。そういうことがあったので、身長も168cmあるこの子を可愛く見せるには周りに男のかたを侍らせたほうがいいだろうといういずみたく先生のアイデアが当たっちゃったわけなんです。ナイトクラブやキャバレーでハワイアンやラテンを演奏していたバンドマンが集められてキラーズが結成されました。
――(ピンキーとキラーズの)あのスタイルにモデルはあったんでしょうか

アメリカのスパンキー&アワ・ギャングなんかがそうでしょうね。あとはセルジオ・メンデスとかカーペンターズ、バート・バカラックの影響もあったりして、今思えばライバルが贅沢でしたね。ヤマハの世界歌謡祭にも、ピンキーとキラーズ、カーペンターズ、オリジナル・キャスト、そして伊東ゆかりさん、この4組で出場したりしました。セルメンの曲はライブでもよく採り上げていましたし、今でもよく歌ってます。
――今回のサブスクではその辺りが入ったアルバムも聴けるようになっていますね
ピンキーとキラーズ『ハロー!ピンキラ』
(1969年2月22日サンケイホール 収録)
※「コンスタント・レイン」「スロー・ホット・ウインド」ほか、洋楽曲のカバーの演奏も収録
リサイタルのアルバムなんかもラインナップされていて嬉しいんですよ。古くからのファンの方からも待ち望んでいたという声が届いてます。今陽子ひとりに戻ってからのアルバムにもCD化されていないものがあって、元のレコードでしか聴けなかったものが配信で聴けるのは有難いですね。自分ではレコードプレーヤーももう処分してしまっていたので。あの時代はジャケットのデザインとかも凝ってましたから、今の若いかたが見ると逆に新鮮だったりするみたい。キラーズのメンバーもパンチョ(加賀美)さんとエンディ(山口)さんは既に亡くなっていて、ジョージ(浜野)さんもついこの間亡くなられたから、あとはルイス(髙野)さんだけになっちゃった。今回はジョージさんの供養にもなるいいタイミングだったと思います。

(後編につづく)





