JA

COLUMN

COLUMN

【江利チエミ企画】秘蔵写真と音楽で辿る江利チエミHistory

SOUND FUJI 編集部

2026.1.16

江利チエミ配信化作品一覧はこちら
プレイリスト企画「私が聴く、江利チエミ」

終戦後、連合軍占領下の日本に華々しく現れた天才少女シンガー、江利チエミ。彼女は戦後間もない時期に、アメリカのトレンド音楽だったジャズを華麗に歌いこなし、さらにラテンから日本民謡に至るまで、さまざまな音楽を新たな解釈で披露してきたアーティストだった。ここではそんな江利チエミの音楽キャリアを振り返っていきたい。


1.生い立ち~歌手・江利チエミへ
2.レコードデビュー曲「テネシー・ワルツ」とは
3.江利チエミと”ジャズ”
4.渡米~デルタ・リズム・ボーイズとの出会い
5.伝説のジャズ・コンサート『ハイカラー・クラブ・サンデイ・ジャズ・コンサート』
6.国境・ジャンルを超越した楽曲たち
7.チエミの民謡~モダン・フィーリングな和魂洋才~
8.ジャズシンガー・江利チエミのマスターピース
9.ミュージカルへの挑戦
10.目まぐるしい日本の音楽トレンドの変化-日本語オリジナルポップスの世界へ
11.ポップスの新境地へ―1970年代の江利チエミWorks
12.デビュー30周年-再び、ジャズへ


生い立ち~歌手・江利チエミへ

江利チエミは本名久保智恵美。1937(昭和12)年1月11日、東京都下谷区、現在の台東区入谷に、三男一女の末っ子として生まれた。父・久保益雄はクラリネットやピアノ奏者として活動、その後は三味線漫談で大人気だった初代柳家三亀松の元で、相三味線などを演奏していた。母は谷崎歳子の名で東京少女歌劇団に所属していた喜劇女優だった。

幼い頃から浅草軽演劇で母の舞台を見学していたチエミは、歌うことが大好きな子どもになった。戦後間もなくの頃は、学校から帰ると、自宅の鴨居から紐をぶら下げ、そこにタワシを括り付けマイクがわりにして擬似ステージを作り、「黒田節」や久保幸江の「ヤットン節」などを歌ったという。

この頃、久保家に蓄音機がやってきた。両親が旅興行で不在の間、幼い子供たちの世話をしてくれていた女性が、チエミの希望を叶えてくれたのである。チエミが外国の歌を好んでいたことを、何よりよく知っていた人物だった。

やがて、父・益雄は師匠の柳家三亀松と衝突し、仕事を失ってしまう。家計は困窮していたが、あるとき益雄に、芸人仲間から渋谷の料亭での仕事が来た。アメリカのGIの酒席で、ジャズの伴奏ができる者を探しているという。この時、チエミが自宅で模擬ショーを開いていることを知っていた仲間のダンサーから、小学生のチエミを連れていくことを提案される。その日の料亭の席で、GIから大喝采を浴びたのは父ではなくチエミだった。

チエミは父に連れられ、こういった酒席にしばしば出ているうち、アメリカ兵から曲のリクエストを受けるようになった。その中の一人にケネス・ボイドという飛行機のエンジニアがいた。ケネスはチエミを妹のように可愛がり、アメリカで出たばかりのレコードを彼女にプレゼントしてくれた。その中に「テネシー・ワルツ」と「カモナ・マイハウス」があったことが、少女の運命を変えることとなったのだ。

そのうち進駐軍キャンプでの仕事が舞い込んでくる。最初は都内の進駐軍クラブ中心だったが、やがて関東近郊、果ては全国を回るようになり、父・益雄がマネージャー、長兄が付き人のような形で同行した。チエミはまだ12歳、1949(昭和24)年のことである。髪にピンクのリボンを結んで、パラシュートスカートで歌うローティーンの子ども歌手は、すぐさま評判になった。

この頃、チエミは母からエリーという愛称を授けられた。江利チエミの芸名はこのエリーから来ているのである。
チエミはレコード歌手としてデビューを目指し、レコード会社のオーディションを受けるが、各社でことごとくハネられてしまったのち、キングレコードの門を叩く。

キングレコード文芸部のディレクター和田寿三はかつて、アマチュアの子ども歌手だった美空ひばりを、映画監督の斎藤寅次郎から推薦された際、断ってしまったことがあった。その経験から「ジャズを歌っている14歳の娘がいる」とチエミを紹介された際、テスト・レコーディングをすることになった。この時、チエミが歌ったのは「テネシー・ワルツ」と「家へおいでよ!(カモナ・マイハウス)」だった。チエミの英語発音は、それまでの日本人が歌う英語曲とは一線を画しており、そこに手応えを感じた和田は、彼女を採用することにした。


レコードデビュー曲「テネシー・ワルツ」とは

「テネシー・ワルツ」が生まれたのは1946年。ピー・ウィー・キングと、彼のバンドであるゴールデン・ウエスト・カウボーイズが、車で移動中にカーラジオからビル・モンローの「ケンタッキー・ワルツ」が流れてきたことに始まる。
キングは鼻歌で覚えたばかりの「ケンタッキー・ワルツ」を真似たメロディーを口ずさみ、それに合わせて同席していた友人のレッド・スチュワートが思いつくままに歌詞を綴った。

翌日、音楽出版社のフレッド・ローズにこの作品を聞かせ、新たに歌詞が書き換えられ、1947年12月2日、ピー・ウィー・キングはゴールデン・ウエスト・カウボーイズと共にこの曲をレコーディング。さらにカウボーイ・コパスのヴァージョンも発売になり、両者は1948年の春にヒットを記録した。

さらなる人気を獲得したのはその2年後。パティ・ペイジのカヴァーが爆発的に売れ、1950年代のビルボードチャートで最大のヒットとなった。元々は失恋した男の気持ちを、himからherに、男女の視点を入れ替え、女性の失恋を歌ったことが大きなヒットに結びついたと言われている。

チエミがヴォーカルスタイルでお手本にしているのは、パティ・ペイジではなくジョー・スタッフォードのヴァージョンである。パティの女性らしくエレガントな歌唱法ではなく、ジョーのちょっといなせで男前な歌い方が、そのままチエミに受け継がれた。

▼ジョー・スタッフォード「テネシー・ワルツ」

▼江利チエミ「テネシー・ワルツ」

江利チエミ版「テネシー・ワルツ」の大きな特徴は、英語の歌詞と日本語詞がチャンポンになっていることである。具体的にはワンコーラス目が英語→日本語、2番は逆に日本語→英語という流れになっている。

この形式はアメリカのポップミュージックを日本の流行歌に落とし込むために必須だった。発案者は和田で、最初は歌詞を訳詞者に依頼したが、日本語がうまくメロディーに乗らず、和田自らが訳詞をした。訳詞者名の「音羽たかし」は和田のペンネームで、キングレコードの音羽スタジオが坂の高い場所にあったことに由来する。その後、キングの文芸部のディレクターが日本語訳をする際に用いる共同ペンネームとなった。

カップリングの「家へおいでよ」は、「カモナ・マイハウス」として名高いジャズナンバー。1939年に作られた曲で、作詞は『わが名はアラム』『人間喜劇』などの代表作を持つ、小説家・劇作家のウィリアム・サローヤン。戦後、1951年にローズマリー・クルーニーの歌で大ヒットとなった。ケイ・スターも同時期に吹き込んでいる。チエミの英語は、今聴くと “日本語英語 “的な発音だが、当時としては斬新だった。

ヴォーカリストとしての江利チエミの個性は、すでにデビューの時点で確立されていたと言えるだろう。「テネシー・ワルツ」の、アルトの声質から放たれるふくよかで、慈愛に満ちた歌声はとてもレコーディング時に14歳だったとは思えない。希望に満ち溢れたティーンの少女が「去りにし夢」と歌う時、そこにはノスタルジーを含んだ哀愁が滲み出る。温かみのある表現力こそが江利チエミの大きな魅力なのだ。

一方の「家へおいでよ」のヴォーカルは太く、黒っぽい。ノリの良さは最上で、アップテンポの激しいリズムでもバタつかず、スイスイとメロディーに乗っていく。ところどころにファニーな表情を入れつつ、弾けるようなリズム感で歌を自分のものにしてしまう。

この2つの個性が江利チエミの大きな武器となった。前者のスタイルはその後、バラード系のジャズ・スタンダードを歌う際に発揮され、後者のリズム感とノリは、グルーヴィーなサウンド、あるいはラテン、無国籍系音楽にも対応できるものだった。チエミはその後、日本民謡や端唄、小唄などをジャズやラテンアレンジで歌うようになるが、この際にも絶大な効果があった。加えて下町のおきゃんな女の子、といった個性が日本人のリスナーにシンパシーを抱かせ、後の “世話好きなおっかさん “風の、庶民的なキャラクターへとつながっていくのである。哀愁とノスタルジー/庶民的で快活といった彼女の二面性はデビュー曲の時点で確立されており、その魅力はキャリアのあらゆる場面で発揮されていった。

1952年1月23日、チエミは「テネシー・ワルツ/家へおいでよ」で歌手デビューを果たす。

当時としては破格の23万枚を売り上げ、続いてリリースされたナット・キング・コール1950年のヒット曲「ツゥー・ヤング」も15万枚を売り、あっという間にチエミはティーンの天才少女歌手として、戦後日本の音楽シーンを席巻する。


江利チエミと”ジャズ”

当時、日本に入ってくる洋楽はすべて「ジャズ」と呼んでいた。シャンソンやタンゴなどもひとくくりに「ジャズ」とされていた時代である。チエミのデビュー曲「テネシー・ワルツ」も、本来はカントリー・ミュージックだが、これも「ジャズ」だったのだ。

一方で本場アメリカのジャズは、終戦の年にあたる1945年に、スウィングからビバップへと大きく転換した。ヴォーカリストではエラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、ビリー・ホリデイなどが登場し、複雑なフレーズを即興で歌いこなしたり、楽器のソロのごとく速いフレーズや、スキャットを巧みに聴かせるようになっていた。

これらのジャズは、日本人ミュージシャンによって進駐軍キャンプなどで演奏されるようになり、占領が終わった50年代初頭には、我が国最大のジャズ・ブームが起こる。日本でいち早くビバップを取り入れた一人が、ピアニストの増尾博(増尾好秋の父)で、増尾は江利チエミと早い段階で接点があり、2作目「ツゥー・ヤング」のアレンジを手掛けている。

「ツゥー・ヤング」のレコード盤面
「Arr.H.MASUO」と増尾博の名前がクレジットされている

こういった日本におけるジャズの進化とクロスするように、江利チエミはシーンに登場し、幾多のジャズを歌った。1952年10月発売の「チャヌタギ・シュー・シャイン・ボーイ」、同年12月発売の「アゲイン」、53年2月発売の「ガイ・イズ・ア・ガイ」、53年4月の「歩いて帰ろう」など、のちに彼女のレパートリーとなるジャズ・スタンダードをいくつも吹き込んでいる。


※ここまでで紹介した楽曲は、『江利チエミ アーリー・ソングス・コレクション Vol.1』『~Vol.2』『~Vol.3』『~Vol.4』に収録されている


渡米~デルタ・リズム・ボーイズとの出会い

1953年の春、チエミはアメリカに渡り、ロサンゼルスやハリウッドでコンサートを開催し、大喝采を浴びた。この際、ケイ・スターをはじめ、エラ・フィッツジェラルド、ハリー・ジェイムスらのスターたちと面会している。
チエミはハワイ公演でデルタ・リズム・ボーイズと運命的な出会いを果たした。デルタ・リズム・ボーイズはメンバー全員が黒人で、ジャズ発祥の地ニューオーリンズで結成。1934年のデビュー以来、抜群の人気を誇るヴォーカル・グループだった。チエミはトップテナーのカール・ジョーンズに気に入られ、意気投合。彼らはハワイの公演の後、日本に向かう予定であり、日本でチエミとの共演を果たすことを約束した。

チエミとデルタ・リズム・ボーイズは、同じパン・アメリカン機で帰国の途につく。そして同年5月より日本各地でジョイント・コンサートが開かれた。カールはチエミの師匠となり、その後も彼らとの交流が続いていく。

帰国の際、羽田空港でチエミを出迎え、花束を渡した少女がいた。デビュー間もない雪村いづみである。チエミは、自身がカヴァーを予定していたテレサ・ブリュワーの「想い出のワルツ」がいづみのデビュー曲となったことに内心穏やかではなかったそうだが、出迎えたいづみの可憐で屈託のない姿を見てすぐに打ち解け、二人は生涯の親友となる。


帰国した江利チエミの右隣に写る黒のワンピースを着た少女が雪村いづみ

チエミと、先にデビューしていた美空ひばり、そしていづみの3人は、同じ1937年生まれの少女歌手で、彼女たちは「三人娘」と呼ばれるようになり、55年には3人の主演映画『ジャンケン娘』が制作される。日本の音楽シーンに天才少女が揃い踏みして、新たな扉を開く時代が、もうそこまで来ていた。

『ジャンケン娘』DVD発売中 / 4,950円(税抜価格4,500円)/発売元:東宝/©1955東宝

デルタとの共演を果たしたチエミは、54年1月に、浅草国際劇場での『国際最大のジャズ・ショウ』に出演、ナンシー梅木やジョージ川口とビッグ・フォアらと共にステージに立ち、戦後日本のジャズを代表する少女シンガーとして、すでにその名を刻んでいる。


伝説のジャズ・コンサート『ハイカラー・クラブ・サンデイ・ジャズ・コンサート』

ハイカラー・クラブ "サンデイ・ジャズ・コンサート"
LP『ハイカラー・クラブ“サンデイ・ジャズ・コンサート”』

1953年の春、チエミはアメリカに渡り、ロサンゼルスやハリウッドでコンサートを開催し、大喝采を浴びた。この際、ケイ・スターをはじめ、エラ・フィッツジェラルド、ハリー・ジェイムスらのスターたちと面会している。
チエミはハワイ公演でデルタ・リズム・ボーイズと運命的な出会いを果たした。デルタ・リズム・ボーイズはメンバー全員が黒人で、ジャズ発祥の地ニューオーリンズで結成。1934年のデビュー以来、抜群の人気を誇るヴォーカル・グループだった。チエミはトップテナーのカール・ジョーンズに気に入られ、意気投合。彼らはハワイの公演の後、日本に向かう予定であり、日本でチエミとの共演を果たすことを約束した。

1956年4月15日には、サンケイホールで行われた『ハイカラー・クラブ“サンデイ・ジャズ・コンサート”』に出演。この際の出演者は鈴木章治とリズム・エース、渡辺弘とスター・ダスターズ、渡辺晋とシックス・ジョーズ、原信夫とシャープス&フラッツ。アルトサックスプレイヤーの海老原啓一郎や、ペギー葉山なども出演していた。

チエミはスター・ダスターズをバックに「スターダスト」を歌い、さらにはシャープス&フラッツをバックにビル・ヘイリー&彼のコメッツによるロックンロール最初の大ヒット「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を歌っている。この模様はEP盤でリリースされており、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、ダーク・ダックスとの競作となったが、ロックンロール草創期のナンバーを初めて日本語で歌ったのもチエミだったのだ。

さらに「スターダスト」はLP盤『ハイカラー・クラブ“サンデイ・ジャズ・コンサート”』としてもリリースされた。LP収録からは漏れてしまった「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のライヴ・ヴァージョンは、2012年発売のコンピ盤『チエミ+ジャズ』でCD化がなされた。


国境・ジャンルを超越した楽曲たち

『ウスクダラ/夢みるあの人』SP盤スリーブ

チエミはジャズにとどまらず、さまざまな音楽ジャンルに挑戦していた。例えば1954年8月に発表した「ウスクダラ」は、トルコ民謡に基づいて作られた楽曲だった。前年にアメリカの女性シンガー、アーサー・キットが歌ってヒットした作品で、チエミは歌詞にトルコ語の歌唱を組み込んで、語り部風のセリフまで挿入し、原曲の持つエキゾチックな雰囲気を再現している。同月には雪村いづみもカヴァーを発表しているが、チエミのヴァージョンは本家を凌ぐヒットとなった。また、ハンク・ウィリアムズのケイジャン・ミュージック「ジャンバラヤ」も54年にカヴァーしている。この曲は約20年後、カーペンターズのカヴァーで有名になったのはご存知の通り。『旅愁』(50年)の主題歌「セプテンバー・ソング」など、洋画の主題歌を日本語カヴァーするのも得意だった。


この時期の江利チエミのレコードで演奏をした2大ビッグバンド
向かって左が原信夫とシャープス&フラッツ、右が東京キューバン・ボーイズ

ラテン音楽も得意とするところで、エンリコ・ホリンの「ミラグロス・デル・チャチャチャ」の日本語カヴァー「チャチャチャはすばらしい」や、アーサー・キットのラテンポップス「ウェディングベルが盗まれた」、ペリー・コモの54年のヒット「パパはマンボがお好き」など、マンボ、チャチャなど数多くのラテンナンバーをカヴァーしている。リズムのノリの良さはもとより、チエミの陽気で明るいキャラクターは、ラテン音楽との相性が抜群で、コミカルなノリを混ぜながら歌い上げた。ハリー・ベラフォンテが56年に大ヒットさせた「バナナ・ボート」も、日本でカリプソとして紹介された際、浜村美智子と競作でチエミも歌っているのである。

LP『チエミのスタンダード・アルバム』

1959年発表の『チエミのスタンダード・アルバム』は、「べサメ・ムーチョ」をはじめとする全編ラテンサウンドの作品集。「南京豆売り」「マラゲーニャ」「タブー」といったナンバーでは、ワイルドでダイナミックなヴォーカルが堪能できる。

LP『チエミ ラテンを歌う』

1960年には、日本のラテンバンドの草分け、見砂直照と東京キューバン・ボーイズとのレコーディングで、アルバム『チエミ ラテンを歌う』を発表。「カチート」「キサス・キサス・キサス」「ラ・クカラチャ」などラテンの名曲を、抜群のリズム感で歌いこなし、その実力を知らしめた。特に「エル・クンバンチェロ」のソウルフルな歌唱は、文句のつけようもない絶品。

このように日本の音楽シーンで、あらゆるタイプの洋楽を多彩に歌いこなした江利チエミは、戦後最大の洋楽伝道師だったのである。


チエミの民謡~モダン・フィーリングな和魂洋才~

LP『チエミの民謡集』

1950年代の後半になると、チエミは新たな音楽ジャンルに挑む。それが58年11月にリリースされたアルバム『チエミの民謡集』だった。収録されているのは「さのさ」「おてもやん」「黒田節」「相馬盆唄」といった民謡で、演奏は見砂直照と東京キューバン・ボーイズ。彼らのグルーヴィーなアレンジで歌うチエミの民謡は “和魂洋才 “の最たるものだ。

「さのさ」は、明治時代に花柳界を中心に流行った座敷唄。いわゆる俗曲で、即興で歌詞をつけて歌うスタイルだったため、幾つもの歌詞が存在する。これ以降「さのさ」はチエミの重要なレパートリーとなり、ステージでも頻繁に歌われるようになった。

LP『チエミの民謡ハイライツ』

『チエミの民謡集』はシリーズ化され、70年代まで数多くの民謡カヴァーがモダンなサウンドで蘇った。特に62年発表の『チエミの民謡ハイライツ』はシリーズ3作目までの名唱名演を集めたベスト盤で、オリエンタル調の「木曽節」、クールなスウィングに変貌した「奴さん」、ラテンビートの「ちゃっきり節」など、斬新すぎるサウンドが2000年代に入って再評価された。演奏陣はキューバンボーイズをはじめ、中村八大やストリングス・クバーノといった面々。

また、女性ポップシンガーが、和服姿で民謡を歌うスタイルは、その後もザ・ピーナッツ、弘田三枝子、奥村チヨ、由紀さおり、ピンキーとキラーズといった後輩シンガー達に引き継がれていった。

こうして、洋楽と日本物のどちらもレパートリーに入れた江利チエミだが、この59年2月にはプライベートでも大きな出来事があった。俳優・高倉健との結婚である。これによって一時期、家庭に入り芸能活動を中断したものの、1年半後にはステージ復帰。ここからシンガー・江利チエミの第二期黄金時代がスタートする。


ジャズシンガー・江利チエミのマスターピース

シンガー・江利チエミが全盛期を迎えたのは、1960年代に突入した頃である。特に、61年から62年にかけて、チエミはジャズシンガーとして重要なアルバムを何枚か発表している。

LP『チエミ・アンド・ザ・デルタ・リズム・ボーイズ』

1961年4月に発表された『チエミ・アンド・ザ・デルタ・リズム・ボーイズ』は、同年2月20日、東京サンケイホールでのジョイント・コンサートを収録したライブ・アルバムで、バックを務めたのは原信夫とシャープス&フラッツ。ザ・デルタ・リズム・ボーイズは1953年にチエミが渡米した際、ハワイで出会い、帰国後に彼らを伴って、日本でのジョイント・コンサートを開催した仲でもある。

冒頭「テネシー・ワルツ」に始まり「ガイ・イズ・ア・ガイ」「セ・シ・ボン」「トゥー・ヤング」「家へおいでよ」と初期のレパートリーをメドレーで披露。3曲目の「マリーナ」からデルタが参加し、ここでチエミは圧巻のヴォーカルを聴かせる。「ペーパー・ムーン」のノリの良さ、「聖者の行進」のデルタとの絶妙の掛け合いなど、ジャズ・ヴォーカリスト・チエミの実力が存分に発揮されている。さらにデルタの美麗なコーラスワークを堪能できる「サイドバイサイド」や、パワフルな歌いっぷりの「O.K.ユー・ウィン」など、彼らの実力も楽しめるアルバムとなっている。

LP『チエミとカール・ジョーンズ』

同年10月には『チエミとカール・ジョーンズ』を発表。デルタのテナーであり、チエミの師匠とも言えるカール・ジョーンズと組んだアルバムで、演奏は「アゲイン」「ニアネス・オブ・ユー」「ラヴ・ハー」が、原信夫とシャープス&フラッツ。「チーク・トゥー・チーク」や「パリの空の下」など他5曲が与田輝雄とシックス・レモンズ。全てのアレンジを新進気鋭だった服部克久が手がけている。

LP『クレイジー・リズム』

62年には再びカールと共演が果たされた。そのアルバム『クレイジー・リズム』は、
表題曲をはじめ4曲が2人のデュエット。バックは今回も原信夫とシャープス&フラッツが「クレイジー・リズム」「つむじ風のブルース」でバックを務めたほかは、白木秀雄とクインテットの演奏。さらに「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」と「ミッド・ナイト・サン・ウィル・ネヴァー・セット」ではアルトサックス渡辺貞夫のソロが聴ける。

そして、1963年6月8日の東京厚生年金会館。この年、初来日を果たしたカウント・ベイシー・オーケストラの「日本サヨナラ公演」が、原信夫とシャープス&フラッツとの共演で開催された。ステージ左右に、2つのバンドが並んで競演を果たしたほか、カウント・ベイシーバンドのヴォーカリストとして随行したジミー・ウィザースプーンが、シャープス&フラッツをバックに歌い、ベイシーバンドをバックに歌ったのはチエミであった。

チエミとベイシー・バンドの共演は「Love is Here to Stay」、「キャリオカ」の2曲で、特に「キャリオカ」での高速スキャットは圧倒的な上手さで、ノリの凄まじさも特筆すべきものがある。ベイシー・バンドの分厚い音の洪水にまったく負けていないことも驚くべき点。チエミは、とっくにビバップのノリを体得していたのだ。この時代、黒人のフィールを持ち合わせた日本人シンガーは、彼女の他にいなかった。

LP『CHIEMI ERI & COUNT BASIE VS J.WITHERSPOON & SHARPS & FLATS』
同コンサートの音源は、熱烈なファンからの要望により1984年にレコード化された


ミュージカルへの挑戦

この時期、江利チエミはまたしても新たなジャンルに挑んでいる。1963年、東京宝塚劇場でミュージカル『マイ・フェア・レディ』に主演を果たしたのだ。日本におけるブロードウェイ・ミュージカルの初演で、チエミは主役のイライザを演じ、ヒギンズ役は高島忠夫がつとめた。公演前は庶民的であけっぴろげなチエミのキャラクターとイライザ役のマッチングに不安を抱く批評家たちもいたが、結果、舞台は絶賛され、翌年にも再演が決定。この演技によりチエミは毎日演劇賞、テアトロン賞、ゴールデン・アロー賞第1回大賞など多くの栄誉に輝いた。

LP『CHIEMI SHOW TIME MY FAIR LADY /CHIEMI AT THE KOMA』

『マイ・フェア・レディ』のナンバーは、1964年2月発売のアルバム『CHIEMI SHOW TIME MY FAIR LADY /CHIEMI AT THE KOMA』として片面が音源化されている。ここでは、ステージ上のチエミがイライザとして歌っているというより、『マイ・フェア・レディ』の楽曲をチエミが歌う形で、イライザ以外のキャストの歌も彼女が歌っている。後半は、新宿コマ劇場での公演『チエミ・アット・ザ・コマ』からのライヴ音源。

『マイ・フェア・レディ』の成功以降、江利チエミはミュージカルスターとして活躍する。64年10月には、やはりブロードウェイミュージカル『アニーよ銃をとれ』を新宿コマ劇場にて初演。相手役は宝田明が演じ、これも当たり役となる。こちらも64年12月にLP盤として発売されており、「ショウほど素敵な商売はない」などお馴染みのナンバーが歌われた。日本語訳は中村メイコ。

LP『アニーよ銃をとれ』

他にも芸術祭奨励賞を受賞した『お染久松』などの和物の舞台、73年には韓国の古典を題材にした異色のミュージカル『春香伝』を成功させた。『春香伝』もやはり実況録音盤『江利チエミ・ショウ~春香伝~』として同年にリリースされている。

LP『江利チエミ・ショウ~春香伝~』

ステージでのチエミは、1961年の梅田コマ劇場での1ヶ月間の座長公演『チエミのスター誕生」の成功以降、62年から78年までは、新宿コマ劇場での座長公演を16年にわたって続けた。


目まぐるしい日本の音楽トレンドの変化-日本語オリジナルポップスの世界へ

チエミがミュージカルスターとして、その活動の幅を広げていった時期、日本の音楽シーンには大きな変化が訪れていた。50年代終盤に起こったロカビリー・ブーム、そしてアメリカやヨーロッパのポップスを日本語で歌うカヴァー・ポップスの隆盛。さらにはベンチャーズ人気が起爆剤となったエレキブームと、66年のビートルズ来日を機に盛り上がったグループサウンズの大流行といった流れである。

ビッグバンドによるジャズ、ポピュラーソングといった洋楽の主流は、次第にポップスやロックンロールへと移行していく。日本でもカヴァー・ポップスのブームは60年代半ばに終息し、日本語オリジナルのポップスを歌う時代へと入っていった。


この時期、三人娘のうち美空ひばりは「」「悲しい酒」などの演歌、日本調の歌謡曲を歌ってきたが、67年にはジャッキー吉川とブルー・コメッツをバックに従え「真赤な太陽」を大ヒットさせ、GSスタイルのバンドサウンドにも順応する。雪村いづみは64年に反戦ソング「約束」を発表、ピート・シーガーの「花はどこへいったの」をカヴァーするなど、アメリカン・フォークソングに傾倒していく。三人娘に限らず、昭和20年代にデビューしてきたシンガーたちは、一様に、この時代のポップミュージックに対応していくことを余儀なくされていった。

チエミはもともと、日本語オリジナル曲のリリースが少ない歌手だったが、この頃から次第に、日本人の作家によるオリジナル作品を歌いはじめている。

シングル『新妻に捧げる歌/空を帽子に』

その中でも64年に発表した「新妻に捧げる歌」は、中村メイコ・神津善行夫妻の作詞作曲によるウェディング・ソングで、その後、幾多のシンガーにカヴァーされるようになった。夫妻はその後も「木場の娘」「夫と妻といとし子と」などのオリジナル曲をチエミに書き下ろしている。他にも65年9月発売「みれん」のB面「誰もいないとき」は安井かずみ&宮川泰のコンビによる、チエミの新しい方向性を感じさせる1作だった。同様に65年発売の「とんでみたい」は、宮間利之とニューハードをバックに従えた、グルーヴ感に満ちた望郷歌謡で、和風の節回しとファンキーなサウンドの融合という、この時期ならではの折衷感がたまらない。

また、『マイ・フェア・レディ』の演出家・プロデューサーである菊田一夫の作詞、ジャズメン山屋清の作曲による「芸者音頭」など、オリジナルの日本調路線も発表している。これらの作品は、66年のアルバム『芸者音頭 チエミと歌えば』に収録されている。

1962年版『テネシー・ワルツ/カモナ・マイハウス』

なお、江利チエミは初期のSP盤時代の作品を、その後何度か再録音している。「テネシー・ワルツ」も62年の再発シングル、69年発表のベスト・アルバム『ベスト・オブ・チエミ』収録ヴァージョンなど、いくつかのヴァージョンが存在する。62年のヴァージョンは牧次郎のアレンジで、原信夫とシャープス&フラッツの演奏も重厚感を増し、チエミのヴォーカルも年輪を重ねて太く、やや低めになっており、これはこれで魅力的だ。

69年の再録音に関しては、山屋清による、まるで映画音楽を思わせるエレガントなアレンジに生まれ変わり、日本語詞の部分がなくなったことで、チエミのヴォーカルもスウィートな味わいを取り戻し、スケールの大きなスタンダード・ナンバーに生まれ変わっている。
「家へおいでよ(カモナ・マイハウス)」も初回録音時はスウィングのノリに合わせた軽快な仕上がりだが、62年の再録版ではマンボ調のリズムに変わっている。


ポップスの新境地へ―1970年代の江利チエミWorks

LP『チエミのニューポップス』

70年代に入ると、この時代の洋楽をカヴァーしたアルバム『チエミのニューポップス』を1972年に発表している。スリー・ドッグ・ナイトの「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」、サイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」、ビートルズ「イエスタデイ」、バート・バカラック作の「アルフィー」など、トレンド洋楽がチエミならではの解釈で歌われた。

シングル『旅立つ朝/明日に生きる女』

和物レアグルーヴの傑作が、1971年5月発売の「旅立つ朝」だろう。保富康午作詞、村井邦彦作曲による洗練されたソフトロックで、このためにロサンゼルス録音を敢行している。「明日に架ける橋」などのストリングス・アレンジで知られるジミー・ハスケルが編曲を手掛け、ハル・ブレインの強力なドラミングと、チエミの抑えめの爽やかなヴォーカルが完璧なマッチングを見せている。山上路夫&村井邦彦コンビに、ジミー・ハスケルの編曲というB面「明日に生きる女」も、ルーディなグルーヴに乗る爽やかな楽曲。通常よりもやや高いキーで歌われるチエミのヴォーカルが新鮮だ。

73年2月にはフォークの名曲「面影橋から」のカヴァーにも挑んだ。小室等率いるフォーク・グループ六文銭が歌い、作曲者である及川恒平もソロシングルとしてリリースした、和風テイストのフォークナンバーを、チエミはしっとりとした歌いぶりで聴かせた。


シングル『酒場にて/陽気なスージー』

そして1974年9月25日に発売された「酒場にて」は、久々のヒットとなった。山上路夫&鈴木邦彦のコンビによるムーディな歌謡ポップスで、チエミは演歌的な節回しを用いながら、ひとり寂しくグラスを傾ける女性の孤独を切々と歌った。同じ山上&鈴木コンビによる72年の朱里エイコ「北国行きで」と同系統の路線で、チエミ本来の魅力とは異なる作風だが、ショウビズ界で活躍するポピュラーソングの歌い手に、歌謡曲を歌わせてヒットに結びつけた点でも近いものがあった。また、その歌詞内容からは、71年の高倉健との離婚劇以降のことを想像させてしまう。

ところが、同じ作家陣によるB面の「陽気なスージー」はタイトル通り、前田憲男の編曲による明るくスウィンギンなナンバーで、こちらはまさしく正調江利チエミワールド。A面で哀愁と切なさを、B面ではハネた陽気なキャラクターを表現するという、「テネシーワルツ/家へおいでよ」と同じく、シンガーチエミの魅力的な二面性がここでも披露されている。

70年代半ばになると、三人娘のうち美空ひばりは、75年にフォークの神様・岡林信康と組んで「月の夜汽車」を発表。雪村いづみは74年に、細野晴臣率いるキャラメル・ママをバックに迎え服部良一の名曲群を現代的なアレンジで再現したアルバム『スーパー・ジェネレイション』をリリースする。そして江利チエミもこの時期、異色の組み合わせでレコーディングをしていた。それが鈴木慶一率いるムーンライダーズのアレンジと演奏でチエミが往年の中近東路線の楽曲を歌うというものだ。ムーンライダーズの前身であるはちみつぱいが、以前、キング傘下のベルウッドに所属していた縁で実現した企画だった。

だが、レコーディングの途中で会社から中止命令が出て、企画は頓挫。伝説になるはずだったコラボは幻に終わってしまう。ボツにするのは忍びないと、その後ムーンライダーズが自身で「イスタンブール・マンボ」をカヴァーした。

残された音源のうち「ウスクダラ」は、その後何かの手違いで、キングから発売された江利チエミのCDグラフィックス・カラオケ集に、うっかり収録されてしまった。その後、90年発売のコンピ盤『渡邉祐の発掘王 FUJIYAMA POPS編』に収録されたのち、2014年に発売されたムーンライダーズの未発表音源集『アーリーデイズ 1975-1981』に収められた。ここには「ウスクダラ」に加え「シシカバブー」も収録されている。「シシカバブー」もやはりチエミが57年にリリースした「串かつソング(シシュ・カバブ)」の再録音である。

この「ウスクダラ」は、「ラ・マルセイエーズ」風のイントロで始まるエキゾチックなサウンドで、テンポも上がり、チエミもアバンギャルドなバックの音に負けない軽快な歌唱を披露しており、このジャンルのパイオニアとしての矜持を感じさせるものであった。今回の配信では、この「ウスクダラ」ムーンライダーズ・ヴァージョンが、シングル「ノスタルジア/緑の谷」のボーナストラックという形で収録されている。


ムーンライダーズ演奏の「ウスクダラ」は
同時期に録音されたシングル『ノスタルジア/緑の谷(+1)』に収録して配信


デビュー30周年-再び、ジャズへ

LP『NICE TO MEET YOU!』

80年代に入り、江利チエミは原点回帰ともいえるアルバムを発表した。81年発表の『NICE TO MEET YOU!』は、チエミの恩師にあたるカール・ジョーンズを監修に迎え、再びジャズ・シンギングに挑んだ作品である。ジャケットはチエミとカールの親しそうなツーショット。演奏はもちろん原信夫とシャープス&フラッツ、アレンジはカールに加え前田憲男、山屋清が参加している。


写真:左から山屋清、カール・ジョーンズ、江利チエミ、原信夫

「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」「ミスティ」「セントルイス・ブルース」「ゴメンナサイ」「モーニン」「アゲイン」など、ジャズ・スタンダードの名曲を、円熟味を増したヴォーカルで表現し、特にバラード系の作品にその魅力を発揮している。キャリア30年を経て、再び自身の原点であるジャズに回帰したチエミの意欲作となったが、残念なことにこれがラスト・アルバムとなった。
また、この前年には歌手生活30年を記念し、全国縦断BIG SHOWを開催、この際の模様がライヴ・アルバム『江利チエミ 30thアニバーサリー』として発売された。冒頭、「テネシー・ワルツ」でスタートするジャズ、ラテン、スタンダードの30曲メドレーは圧巻のパフォーマンスで、円熟したその歌声で観客を魅了する様が収録されている。

1982年2月13日、江利チエミは不慮の事故により自宅の寝室で亡くなった。
戦後日本にジャズの魅力を伝えてくれた天才シンガーは、最後に再びジャズへと回帰し、その偉大なるキャリアの幕を閉じたのである。

1980年11月から歌手生活30周年を記念した
10都市10公演の『全国縦断BIG SHOW』が開催。
30年の集大成とも言える渾身のパフォーマンスが収められている


本コラムに際し、貴重なお写真の数々をご提供いただきました江利チエミさんのご親族に感謝 申し上げます。
―SOUND FUJI 編集部

ARTIST

  • 江利チエミ

    CHIEMI ERI

BACK TO LIST

江利チエミ

COLUMN