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近田春夫 インタビュー【前編】

日本音楽史のさまざまなジャンルに確かな爪痕を刻んできたVIP、近田春夫。あまりにも長大で広範にわたるその軌跡には、まだまだ知られざるブルーオーシャンが広がっている。“ゴジラとイエロー・ジプシー”名義で参加した洋楽カバー集『ゴーゴー大パーティー』シリーズ、覆面バンド“マイルド・メンソール&シガレット・カンパニー”の『GOODY GOODY OLDY MUSIC』など、キングレコードに残した貴重な音源の配信開始を記念して、往時の活動に分け入ったインタビューを公開。前編では、近田春夫&ハルヲフォンの本格デビュー前夜までの濃密すぎる日々を深く掘り下げる。

進行・文:下井草秀 / 写真:Ryoma Shomura

2025.3.19

――近田さんとキングレコードとの縁が出来るのは、1972年の『ROCK IMPULSE! ゴーゴー大パーティー(第3回)』というアルバム。インストゥルメンタルによる洋楽ヒットのカバー集です。ここに、近田さんは“ゴジラとイエロー・ジプシー”のキーボーディストとして参加しています。ちょっと不思議な名義ですよね。

近田 
ゴジラってのは、俺と金沢純一とアラン・メリルが組んでいたトリオ。イエロー・ジプシーは、ザ・リンド&リンダースというグループサウンズのバンドのリーダーだったギタリストの加藤ヒロシさんのことだね。

――その4人がここに集うまでの経緯というと?

近田 長くなるけどいいかな(笑)。ドラマーの金沢純一と知り合ったのは、1970年に行われた「第1回日劇ロック・カーニバル」でのこと。お互い、このイベントに出演したカルメン・マキ&タイムマシーンというバンドのメンバーとして知り合ったのよ。

――このバンドには、現在は多方面でプロデューサーとして名を馳せる立川直樹さんが、ベーシストとして参加していたそうですね。

近田 俺、「anan」の編集見習いとして取材に行った先で、立川に誘われてこのバンドに入ったんだもん。タイムマシーンは、どうもメンバー同士の相性が悪かったのか、すぐに解散してしまった。ただ、個人的には収穫もあって、それから、ジュン坊(金沢純一の愛称)を通じて、俺の人脈が広がっていく。彼は、もともとグレープ・ジュースというGS予備軍みたいなバンドに所属していたんだけど、デビューには至らなかった。その後、ジュン坊が入ったバンドがエモーション。GSの元ビーバーズのヴォーカルの成田賢、ギターの平井正之を中心としたグループなんだけど、成田さんの病気療養のため1970年に解散し、翌年に再結成することになった。そのタイミングで、俺がキーボーディストとして加入したの。日比谷野音のイベントにも、何度か出演したよ。

――そのエモーションから、近田さんはあっという間に脱退します。

近田 元ハプニングス・フォーのペペ吉弘さんから、新しいバンドへの加入を打診されたんだ。ハモンドオルガンを買ってやるからって甘言を弄されて、コロッと籠絡されちゃってさ。そのバンドの名前が羅生門。金沢純一も、俺と一緒に移籍したんだよ。

――羅生門は、1971年に『日本国憲法 平和・自由・愛』、翌年に『インディアン、死よりも赤を選ぶ』と、2枚のアルバムをリリースしています。

近田 どっちのLPも、俺は一切演奏してないのよ。スタジオミュージシャンが吹き込んだ音源はすでに用意されていて、実演用のバンドとしての体裁を整えるために、メンバーが集められた。しかもさあ、ハモンドのB3買ってくれるっていうから喜んで入ったのに、寄越されたのは日本製の類似品でさ。半分騙されたみたいなもんよ(笑)。

――エモーションのメンバーに合わす顔がない(笑)。

近田 そうだよ。未だに申し訳ないことしたなと思ってるよ。羅生門では、赤坂の「ポテトクラブ」っていうナイトクラブのハコバンを毎晩毎晩やらされた。そこで知り合ったのが、後に『ROCK IMPULSE! ゴーゴー大パーティー(第3回)』で共演することになる加藤ヒロシさん。対バンだったジャパニーズというグループのギタリスト兼バンマスだった。ジャパニーズは、先日亡くなったアイ・ジョージさんのバックバンドだったのよ。

――残る一人、アラン・メリルと知り合ったのは?

近田 羅生門やってたのと同じ頃に、俺は、現アミューズ会長である大里洋吉に出会った。当時、渡辺プロダクションのマネージャーだった彼は、俺に対し、「日劇ウエスタン・カーニバル」で、自分の担当している3組のサポートとしてキーボードを弾いてくれないかという。それが、ザ・ワイルド・ワンズ、ロック・パイロット、そしてアラン・メリルだった。3組のバックで演奏して、ギャラは1組分という条件だったんだけどね(笑)。まあ、憧れのウエスタン・カーニバルだから、喜んで引き受けましたよ。

――ロック・パイロットは、ファニーズ、ピーターズ、P.S.ヴィーナスという3組のGSの元メンバーが結集したバンドです。アラン・メリルの母は、“ニューヨークのため息”と称された有名なジャズシンガー、ヘレン・メリル。当時、彼女の再婚相手である通信社のアジア総局長が日本に赴任していたため、同行したアランも東京に住んでいました。

近田 アランは、在日アメリカ人ばかりを集めたザ・リードというGSに加入して活動してたんだけど、別のメンバーが大麻不法所持で逮捕されちゃって、グループは空中分解。ソロとして再出発したところだった。

――これを機に、ゴジラというグループが結成されるわけですね。

近田 そう。1972年新春のウエスタン・カーニバルの際のバンドを、パーマネント化しようとなってね。当初は、アランがギターとヴォーカル、ベースが元ザ・ゴールデン・カップスの林恵文、キーボードが俺、ドラムスが金沢純一という布陣だったの。でも、日劇の後に林恵文がこの業界から足を洗っちゃって、ゴジラはベースレスのトリオになった。ザ・ドアーズのレイ・マンザレクみたいに、俺が左手でベース音を弾いたのよ。ちなみに、このバンド名は、T・レックスより強いのはゴジラだろうということでつけられた。

――ゴジラは、どんな場所で活動していたんですか。

近田 パイオニアの商品の販売促進キャンペーンの一環として、全国をツアーしたり、軽井沢のディスコみたいなところでひと夏ぶっ通しで営業したりとか。ただ、アランが米国籍だったから、半年に一度、ビザ更新のために帰国しなくちゃならない。顔を合わせられない機会も増えちゃって、バンドはフェイドアウトしちゃった。

――その後、袂を分かったアラン・メリルは、元ザ・テンプターズの大口広司さんらとウォッカ・コリンズを結成することになる。そんな風に活動期間が短かったゴジラが残した貴重な音源が、この『ROCK IMPULSE! ゴーゴー大パーティー(第3回)』となります。しかし、謎なんですが、まったく同じタイトルで、72年と73年に2枚の別のアルバムがリリースされてるんですよね。なぜなんでしょう。
(※今回の配信では、72年版を『ROCK IMPULSE! ゴーゴー大パーティー(第3回)』、73年版『ROCK IMPULSE! ゴーゴー大パーティー(第3回) [上田力&ザ・キャラバンVSゴジラとイエロー・ジプシー]』とタイトルを差別化)

近田 分かんないなあ。2枚目を「第4回」とすべきところを単に忘れちゃったとか、キング側の事務的なミスなんじゃないの? 何しろ、のんきな時代だったからね(笑)。

――2枚とも、A面は上田力とキャラバン、B面はゴジラとイエロー・ジプシーが演奏を担当しています。ギターの加藤さんが加わったので、ここでのアラン・メリルはベースも弾いている。

近田 このオファーは、キングに伝手のあった加藤ヒロシさんから持ち込まれたんだよね。当時は、レコード会社も景気がよかったからさ、バンドマンに小遣いを稼がせるような意味で、この手の企画物を量産してたのよ。決まって、スタジオの通常営業が終了した夜中になってから、ミュージシャンを集めてレコーディングしてた。夜中だと、スタジオ代はタダみたいに安かったんだよ。

――ゴジラとイエロー・ジプシーが取り上げたのは、ディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」、ザ・ローリング・ストーンズの「タンブリング・ダイス」、T・レックスの「ゲット・イット・オン」、エルトン・ジョンの「クロコダイル・ロック」といったところ。選曲の基準は?

近田 当時は、バンド同士がジャズ喫茶の楽屋なんかで結構交流してたから、セッションを通じて、自然とやる曲って決まってくるのよ。このLPでやってる曲は、どれも目をつぶってても演奏できるぐらいだった。スタジオに来てから現場でアレンジを決めて、ビールでも飲みながらチョチョイとやっちゃった感じ。1枚につき、せいぜい1日とか2日とかで録り終えたんじゃないかな。

――特に記憶に残っている曲というと?

近田 73年版の最後に入ってる「ポップコーン」だね。

――電子音楽の祖の一人であるガーション・キングスレイが作曲したナンバーですよね。キングスレイ自身のアルバムに収録された楽曲をカバーした、ホット・バターというバンドによるヴァージョンが72年にヒットしました。

近田 ホット・バターのレコードでは、モーグのシンセサイザーが主旋律を演奏してるんだけど、もちろんそんな高い楽器持っちゃいなかったからさ、俺が歯をカチカチ鳴らして真似てるんだよ。レコーディングの後、しばらく頭痛が続いたなあ(笑)。

――その傍ら、72年の近田さんは、内田裕也&1815ロックンロールバンドに参加しています。ヴォーカルが裕也さん、ギターがクリエイションの竹田和夫さん、ドラムスが大口ヒロシさん、ベースがアランで、キーボードが近田さん。音楽性はロカビリー志向。

近田 裕也さんは派手好きだから、フジテレビの「リブ・ヤング!」って生放送の番組でこのバンドを御披露目しようということになったんだけどさ、同じ日に、その番組でテレビ初出演を果たしたのがキャロルだったんだ。まだアマチュアなのに、あまりにもカッコよくって、裕也さん始め、俺たちみんなぶっ飛ばされてシュンとしちゃってさ。この編成での活動は、その日が最初で最後になっちゃった。この後も、予定されていたツアーをこなすために内田裕也&1815ロックンロールバンドという名義こそ残るんだけど、メンバーの実態は、内田裕也+クリエイション+近田春夫に変わってしまった。

――1973年には、加藤ヒロシさん、金沢純一さんとともに、神崎みゆきというシンガーソングライターの『神崎みゆき ファースト・アルバム』のレコーディングに参加します。

近田 字面だけ見ると女性に思えるけど、男性なんだよね。「ゆう子のグライダー」っていうデビュー曲がちょっとヒットしたんだよ。フォーク寄りだから、正直、俺の好む音楽性とは別の世界だったけど、曲を作る才能はあった人だったと思う。

――なお、この後、加藤ヒロシさんは渡英し、ロンドンを拠点に音楽活動を開始します。

近田 こういう裏方の人物って、なかなか歴史に名前が残らないけど、重要な役割を果たした要人なんだよね。日本人アーティストのロンドン録音というと、加藤さんが差配することが多かった。その代表作が、1977年にリリースされた山口百恵の『GOLDEN FLIGHT』。ここで、加藤さんはすべての編曲とプロデュースを手がけている。

――ロンドンのみならず、ヨーロッパ全域における日本人ミュージシャンの活動を支えていた感があります。1985年にBOØWYが3枚目のアルバム『BOØWY』をベルリンのハンザ・スタジオでレコーディングした時も、加藤さんはレコーディング・マネージャーとしてクレジットに名を連ねています。

近田 あの頃のヨーロッパ録音というと、たいがい、加藤ヒロシさんか、シング・アウト出身のクマ原田が仕切ってたんだよね。彼らはもっとリスペクトされていいと思う。

――1973年、内田裕也&1815ロックンロールバンドを脱退した近田さんは、ハルヲフォンを結成します。

近田 裕也さんのところから足抜けするには、自分のバンドを組むという大義名分でもないと許されないと思ってさ。まずは、ゴジラの時から続けていたパイオニアの販促ツアーから活動を始めて、その後、銀座の「シーザース・パレス」という巨大なディスコでハコバンを務めることになる。いろいろなリクエストに応える器用さと俺のMCが人気を呼んで、店の周りに行列が出来るほどになっちゃって、通算で2年ぐらいはハコバンを続けてたんじゃないかな。その間に、新宿や横浜の店なんかでも演奏してたのよ。

――満を持して、1975年5月には、ハルヲフォンとして、「ファンキー・ダッコNo.1」でデビューします。


近田 満を持してといっても、契約はワンショットで、まるっきり企画物のシングルだったけどね。玩具メーカーのタカラが、創業20周年の記念事業として、1960年代に大ブームを巻き起こしたビニール製の人形「ダッコちゃん」をリバイバルさせることになって、そのキャンペーンソングの仕事が、キングの井口良佐さんというディレクターから持ち込まれたのよ。このシングルにそこそこの反応が返ってくれば、アルバムも作れるよって感触だった。

――この時点でのハルヲフォンのメンバーは?

近田 キーボードは俺で、パーカッションが恒田義見、ベースが高木英一、ギターが小林克己、ドラムスが長谷川康之。つまり、「シーザース・パレス」でハコバンをやっていた晩期のメンバーだね。そこに、女性ヴォーカルとして、キャロン・ホーガンという黒人と日本人のハーフの子が加わった。六本木のディスコ「アフロレイキ」の看板シンガーだったんだけど、ファンキーな見た目に反して、生まれも育ちも浅草というちゃきちゃきの江戸っ子なのよ(笑)。彼女を連れてきたのは、これまた六本木にあったディスコ「ソウル・エンバシー」の店長にして全国ディスコ協会会長の勝本謙次さんだった。

――この編成でのハルヲフォンは、同年8月10日に郡山で開催されたフェス「空飛ぶカーニバル」に出演。そのわずか3日前の8月7日には、近田さんが単独で、後楽園球場で行われた「ワールド・ロック・フェスティバル」に参加し、元マウンテンのフェリックス・パッパラルディとジョー山中を中心としたバンドで、キーボードを演奏しています。

近田 あの時、俺は、同じフェスに出ていたニューヨーク・ドールズから加入の誘いを受けたし、ジェフ・ベックのバンドでドラムを叩いていたバーナード・パーディは、アメリカで活動しないかと名刺をくれたんだ。応じてたら運命が変わってたよ(笑)。しかし、デヴィッド・ヨハンセンが亡くなって、ついにニューヨーク・ドールズはすべてのメンバーがいなくなっちゃったね。東京でもニューヨークでも一緒に遊んでくれたから、本当に寂しいよ……。

――この1975年の9月には、近田さんが実質的なプロデューサーを務めたクールスのデビューアルバム『クールスの世界~黒のロックン・ロール』がキングからリリースされます。めまぐるしい仕事ぶりですね。


近田 名義上はキャロルを解散して間もないジョニー大倉がプロデュースしたことになってるんだけど、ほとんどスタジオでは姿を見なかった。バイクチームからバンドに移行したばかりのクールスは、この時点では満足に楽器を弾くことができなかったんで、実は、ほとんどの演奏はハルヲフォンが手がけている。クールスには、リーダーのたちひろし(現・舘ひろし)を始め、原宿の「グラス」という洋服屋で働いていたメンバーがいたんだけど、俺もその店によく出入りしてたから、もともと面識があったのよ。

――それにしても、一つ一つのエピソードがあまりにも濃密すぎます(笑)。次回は、近田春夫&ハルヲフォンが本格的に活動を開始する1976年から、近田さんがキングを離れる79年までについて、さらに深くお聞きします。

(後編につづく)

[取材協力]
『PHONO SHIBUYA Music Library & Cafe』
住所:〒150-0043 東京都渋谷区道玄坂1丁目2−3 東急プラザ渋谷 7F
営業時間:11:00〜22:00 (L.O.21:30)


配信シリーズ『MOOD SOUNDS of TOKYO』第2弾
『ゴーゴー大パーティー』シリーズ、近田春夫 関連作品を配信開始

ARTIST

  • 近田春夫

    HARUO CHIKADA

  • 近田春夫&ハルヲフォン

    HARUO CHIKADA & HARUOPHONE

  • 神崎みゆき

    MIYUKI KOZAKI

  • 上田力

    CHIKARA UEDA

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