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難波弘之×鳴瀬喜博(CASIOPEA)対談――半世紀、音楽人たちが紡いだもの【前篇】
文:栗本斉 / 写真:松永樹 / 協力:music bar 45
2026.8.21

——今回は難波弘之さんの音楽活動50周年という機会で、難波さんをよく知る盟友・鳴瀬喜博さんをお迎えしての対談となります。お二人の関係や作ってきた音楽にスポットを当てたいと思います。よろしくお願いします。鳴瀬さんの方が学年は少し先輩ですよね?
難波:学年でいうと4つ上かな?
鳴瀬:俺が1949年生まれで、難波が1953年生まれだからね。
——音楽キャリアも鳴瀬さんの方が先ですね。難波さんのことを知ったきっかけははなんだったのですか。
鳴瀬:1974年にCharなんかとやっていたスモーキー・メディスンを解散した後、金子マリの家でキャロル・キングとか聴きながら、マリを生かした新しいバンドを作ろうとしてメンバーを探していたんだよ。
難波:ジャニス(・ジョプリン)じゃなくてね(笑)。
鳴瀬:ジャニスじゃなくてキャロル・キングね。「下北のジャニス」っていうのはその頃巷でのはなしだから(笑)。で、俺が当時、太田裕美のデビュー当初のバックバンドをやっていて。学習院大学の学園祭に出ることになって行ったんだよ。同席していたマリバンドのマネージャー予定者から、「キーボードの候補がいる」って言っていて。楽屋口で、セーターを着た品の良い男の子がいて、「こちらで」って案内してくれたんだよ。それが難波だったの(笑)。その裕美バンドの、ドラムが遅れていてさ。本番は金子マリが代わりのドラマー(笑)。
難波:(笑)そうだったね。
鳴瀬:で、次に鍵盤候補の学生バンドを観ていこうってなって。そのバンドは、PFMとかEL&Pみたいな難解なプログレをやっていてさ(笑)。俺が全く聴かないような音楽をやっていたんだよ。
難波:「愛の三色すみれ」っていうバンドをやっていて、桜田淳子の曲から名前を取ったんだけど。1974年の話だね。
難波弘之
鳴瀬:当時はライヴハウスもまだ無いし、学園祭とかそれこそディスコバンドの横のつながりくらいしか知り合う場所がなかったんだよね。
——難波さんは当時、学習院大学の学生だったんですよね。
難波:そうです。軽音楽部でバンドをやっていました。11月の学園祭で、ウルトラセブンの撮影でも使われた、今はもうないんですけど、名物建築だった「ピラミッド校舎」でライヴをやっていて。たぶん寒かったからセーターを着ていたんだと思う(笑)。
鳴瀬:それで難波をマリのバンドに誘ったんだよ。
難波:その場で(タバコの)セブンスターの箱をびりびりって破って裏に電話番号書いて渡してくれて(笑)。後日、下北沢の跨線橋の改札口で待ち合わせて、「マサコ」っていうジャズ喫茶でミーティングしたよね。
鳴瀬:そこで難波のことをなんだかんだ言って口説いたんだよな。
難波:開口一番「バンドを解散したから、一緒にやんないか?でも俺、プログレやらないからね!」って釘を刺してきてさ(笑)。
鳴瀬:俺はもうその頃にはチャカ・カーンのルーファス、みたいなファンクやソウルがやりたかったからね。ベースのスタイルもハードロックからブラックスタイルに変えたし。
難波:それも言われましたね(笑)。でも僕もビリー・プレストンやスライ&ザ・ファミリー・ストーンなどのブラック・ミュージックは好きだったから、全然抵抗はなかったよ。バックスバニーはスモーキー・メディスンみたいなハードなロックじゃなくて、もっとファンキーで黒人音楽的なアプローチだったからね。
鳴瀬:ルーファスみたいなバンドをやりたかったんだよね。でもキーボードがあまりいなくて。俺らの子供の頃は、男の子が鍵盤を弾いていると、いじめられる時代だったからだよね(笑)。
難波:そうそう! 昭和30年代の公立小学校でピアノ習っているといじめられるから目立ちたくなかったのに、音楽の先生に気に入られて合唱の伴奏をさせられたりして。
鳴瀬:今は音楽学校もたくさんあるし、YouTube見て練習もできるわけじゃん。でも当時はそんな情報もない。それなのに、難波はひとりですごくピアノを勉強していたわけだよ。一番年下でおとなしかったしね。
鳴瀬喜博
難波:こちらは学生だったけど、メンバーはもちろんみんなプロだし、最初は「マリさん」って“さん”付けして呼んでいたら、「それはやめて」って言われた(笑)。
鳴瀬:最初はすごくおとなしいイメージだったんだけど、バックスバニーでみんなでよく飲んでて、下北沢の炉端焼き屋で「炉端焼き」と「ロバータ・フラック」をかけたダジャレを言って大ウケして(笑)。「こいつこんな奴だったのか!」ってわかっちゃった。そしたら、落語が好きだとか言っているし。
難波:そう、僕は落語が好きで、小学生の頃から一人で浅草演芸ホールや人形町末廣に通う変な子供でした。学習院の制服着て末廣に行ったら大騒ぎになって(笑)。柳家三亀松に「今日は、学習院の坊ちゃんが来てるから色っぽいネタはできないね」とイジられました。
鳴瀬:金子マリのお父さんも芸事や歌舞伎が好きで、江戸の粋な文化に理解があってさ。マリも子供の頃から踊りをやっていて、都々逸がすごく上手かったんだよ。だから難波の落語好きとマリの背景が上手く合致してさ。
——バックスバニーは1975年結成、1976年にレコード・デビューですよね。難波さんにとってはプロ・ミュージシャンとしては初のレコーディングですか?
難波:初めてです。当時大学4年生で、レコーディング・スタジオに法学部の卒業試験の教科書を持ち込んで読みながら弾いていましたからね(笑)。
鳴瀬:そうか、まだ学生だったんだ。
難波:バリバリ在学中だよ。
鳴瀬:難波が曲に分数コードやおしゃれなテンションを入れてくるから、曲のクオリティが一気に上がったんだよ。ファーストシングルの「あるとき」でも、イントロのリフを俺がシンプルなコードを出したら難波がおしゃれなコードに変えてくれてさ。「おお、こいつすごいな」って感心したよ。ロバータ・フラックのギャグから分数コードまですごいなって(笑)。
——デビューというと感慨みたいなものはあったんですか。
難波:いやもう、右も左もわかんないから。変人だしオタクだし、今だったら秋葉原にいるようなタイプだった。そんなやつがバンドに入ったから大変。むしろ、バンドに入って一般常識を覚えるみたいな感じでしたね。人との付き合い方なんかもバンドで学んだし。

——難波さんが音楽的にマニアックになった背景には、ご家庭の影響もあったのですか?
難波:親父が変わった人でね。元々は早稲田大学を出て東芝の社員だったんだけど、カメラ、バイク、鉄道など、多趣味な人でした。アコーディオンとハモンドオルガンが好きすぎて、戦後になってからプロのジャズミュージシャンになっちゃった人なんです。
鳴瀬:最初はそんなこと一切言わなかったよな。
難波:そうだね。マリのお母さんが、父のファンだったらしくてびっくりした。ジャズのアコーディオンは「スイングジャーナル」誌の人気投票では「その他の部門」扱いでしたが、一位だったみたいです。小学校低学年の頃、ジョージ川口さんから家に電話がかかってきて、「おい、お前の親父を出せよ!」ってすごい声で怒鳴られて、その時親父は二日酔いで起きなくて、「お前の親父が来ないんだよ。トラ入れろ!」って。「トラ」って動物の虎だと思うからさ。(代演者=エキストラを略して、業界ではトラと言う)
それですごく怖くなって泣いちゃったりとかして(笑)。
鳴瀬:日本の初代バンドマンって感じだよな。そう思うと俺ら二代目は民主的だ(笑)。
——いや、なんだかすごい家庭環境ですね。
難波:おふくろはクラシックの声楽家でした。フランス近代歌曲が専門でしたが、その頃はオペラなどわかりやすい曲が人気だったので、家で今で言うボイトレのレッスンをやってました。立川澄人さんやダーク・ダックスが通っていました。親父は夜の仕事なので普段はあまり顔を合わせることがなく、寂しくて(笑)、現実逃避のために僕はSFや鉄道、オタクの世界に没頭したんです。今回のベスト盤のブックレットには、小学生の頃に親父のハモンドオルガンを弾いている写真や、東京オリンピックの前の年に新幹線の試運転を親父と試乗しに行った時の写真を入れています。
——鳴瀬さんは難波さんとは違う環境ですか。
鳴瀬:俺は全然違うよ。商店街の果物屋で、中学3年の時にビートルズの映画を見て「これだ!」と思ってギターを始めて。大学時代にディスコや米軍キャンプの仕事で演奏して稼ぐようになった。歌舞伎町のディスコでハコバンをやっていた頃は、日本プロレス崩壊の時期で、事務所に日プロの社長の芳の里さんが来たり、レスラーのタイガー戸口(戸口正徳)さんがボディガードでついてくれたりしてさ(笑)。まだ若手レスラーだったんだけど、身長が190㎝以上あったから「おお、大丈夫だ」ってね(笑)。
——鳴瀬さんもなかなかのご経験をお持ちですね(笑)。
鳴瀬:ディスコのハコバンをやった後は、カルメン・マキ&OZに2年くらいいて、スモーキー・メディスンをやって、それがパンクしちゃって、バックスバニーへ繋がるわけ。その頃のバンドって、すぐパンクしちゃうからさ。
難波:そうだね。ほとんどのバンドが長続きしなかったね。
鳴瀬:そう思うと、難波と同じ学校に通っていたとしたら、絶対に友達になってないよね。
難波:もう少し下の世代だったら、先輩後輩でバンドやったりするじゃない。EPOと佐橋(佳幸)とか、慶応のサークルで竹内まりやと杉真理が一緒だったとかさ。そこが僕らとの世代の差があるかもしれない。
——バックスバニー時代はどんな感じで活動していたのですか。
鳴瀬:曲を作って、みんなでアイデアを出し合ってアレンジしてね。そこに難波が洒落たコードを付けてくれるんだよ。曲の土台はそれぞれのメンバーが作ってきて、みんなでアレンジっていうのが基本だよね。
難波:関西ツアーもよく行ったよね。上田正樹のサウス・トゥ・サウスや、塩次伸二や山岸潤史がいたウェスト・ロード・ブルース・バンド、それと憂歌団。あとは、名古屋のセンチメンタル・シティ・ロマンスなどと対バンしたね。当時の関西のブルース/ファンクのパワーはすごくて、東京のバンドはモテなかったんだけど、バックスバニーはファンキーだったからすごく受けが良かった。山下達郎がやっていたシュガー・ベイブなんて、180度違うタイプのバンドだった外道の後に演奏させられてコテンパンにやられて泣きそうになっていたからね(笑)。
——難波さんがバックスバニーを脱退された理由は?
難波:一番は、当時のマネージメントとの問題ですね。ギャラの遅配とか経営が怪しくなってきて。僕は変人だから直接言わずに、マリに脱退の手紙を書いて渡したんです。未だにマリに「あの時手紙くれたよね」ってからかわれますけど(笑)。
鳴瀬:当時、難波はスタジオミュージシャンとして引っぱりだこになって、スケジュールが合わなくなってきたのもあったしね。あと、山下達郎がバックスバニーのライヴを見に来て「難波くん、いいよね」って俺に言ってきたんだよ。「絶対こいつ、難波を引っ張る気だな」って思ったもん(笑)。

難波:それは初めて聞いた(笑)!バックスバニーやってる時に、三枝成彰先生のNHKの仕事をやるようになりました。三枝さんに「君のピアノは品がいい」って気に入られて。そこから池辺晋一郎先生の仕事や、三枝さんの弟子の堀井勝美の現場にも呼ばれるようになり、それが堀井勝美プロジェクトに繋がっていくんです。当時はバンドマンで譜面が完璧に読める人が少なくて、僕や教授(坂本龍一)みたいなタイプが重宝されたんですよね。
鳴瀬:その頃俺らは譜面読めないからね。そういうのは全部難波に頼んでいた。
難波:だからいろんなミュージシャンに譜面の読み方を教えたね。そういうこともあって、セッションに呼んでもらうことが多かった。キーボード奏者ってそういう運命にあるんだよね。
鳴瀬:80年代に入って、俺が「うるさくてごめんねバンド」のライヴレコーディングをやる時にゲストキーボードを難波に頼んだり、堀井勝美プロジェクトで一緒になったり、難波がバンド辞めてからもずっと現場では交流があったんだよね。
難波:70年代の終わりに、村上“ポンタ”秀一の『東京フュージョン・ナイト』っていうライヴ・セッションを僕とナルチョとカシオペアでデビュー直前の野呂一生でやった時も面白かったよね。ポンタが主役のライヴなのに、リハーサルが終わったら、いろいろと諸事情があって(笑)ポンタがあるところに連れて行かれちゃって、開演直前になって主役がいないコンサートになってしまったという伝説(笑)。それで、客席にいた山下達郎や鈴木リカ徹なんかも参加してね。
鳴瀬:それだけじゃないよ。マリも山岸もいたんだよ。
難波:あ、そうだっけ。そう、それでみんな総出で、主役がいないのにコンサートはやったんだよ。オープニング・アクトが清水信之がいた紀伊国屋バンドで、彼らが演奏している間に、達郎が譜面書いてリハスタで練習して、ステージに出てから「みんな知っていると思うけど、ポンタが出られなくなったからみんなでセッションやるんで聴いてください」って(笑)。
鳴瀬:あったなぁ!(笑) あの時はシンコーミュージックの奴から「ポンタがいなくなるよ」って事前に電話きていたんだけどさ(笑)。あの頃はそういうことがたくさんあったし、無茶苦茶な時代だったよね。「11PM」(日本テレビの名物深夜帯番組)の司会が三宅裕司さんになる、そのオープニングに出て生演奏をした時のことは覚えてる?
難波:(渡辺)香津美も一緒だった時?
鳴瀬:そうそう、香津美がソロの順番を間違えてさ。ああいう生放送番組ってカメラが回ってくる順番も決まってるじゃん。でも間違えたからみんなどさくさで好き勝手やって、えらいことになって(笑)。
難波:あの時もドラムはポンタだったじゃん(笑)。
鳴瀬:そっか、何かといえばみんな一緒にいるんだな(笑)。ここで言えないこともいっぱいあるしね(笑)。
——難波さんは1979年に最初のソロ・アルバム『SENSE OF WONDER』を発表して、その後もコンスタントにソロやSENSE OF WONDER名義のアルバムを発表されているだけでなく、アニメのイメージアルバムもたくさん手掛けられていますよね。
難波:結局、最初の『SENSE OF WONDER』を作っちゃったからだよね。SFオタクの独りよがりみたいなアルバムだったから。長戸大幸のおかげだよね。「難波くんがやりたいことがさっぱり分からない」って言われたのに(笑)、全部任せてくれたから。よくあんなもの作らせてくれたよなって今になって思います。ああいうオタクならではの作品を作ってしまったから、イメージアルバムの仕事も多かったのかなって思いますね。

——難波さんならではのブランドって感じがします。
難波:面白い話があって、ピットインで言われたんだけど、「難波さんのライヴに並んでいるファンはみんな本を読んでいる」って(笑)。他のバンドでそういう現象が見られるのはZABADAKぐらいかな。あそこは文芸系や演劇系のオタク層が多いから。
鳴瀬:でも、そういうファン層が付くっていうことは、ちゃんと伝わってるってことだよね。
難波:まさにそういうことだね。

<プロフィール>

難波弘之(なんば ひろゆき/1953年9月9日 生まれ)
日本のキーボード奏者、作曲家・編曲家、SF作家。東京都豊島区巣鴨出身。両親が音楽家ということもあり、4歳よりピアノを始める。学習院大学在学中より、プロミュージシャンとして活動を始める。1975年に鳴瀬喜博の誘いで「金子マリ&バックスバニー」に加入。1979年に1stアルバム「センス・オブ・ワンダー」リリース。山下達郎のサポートミュージシャンとしても長年活躍中。

鳴瀬喜博(なるせよしひろ)
1949年11月13日 76歳 東京都出身 A型
大学在学中にベースを始め、ディスコを舞台にプロ活動を開始。“カルメン・マキ&OZ”、Char(G)との“SMOKY MEDICINE” “金子マリ&BUX BUNNY” などなど伝説のバンドに参加。ナルチョ=チョッパーと言われるほどにチョッパーベーシストの神様的存在になっている。
1990年にはCASIOPEAに加入、並行して“EnTRANS” “チョパレボ” “ヒダヤルナル”“Fun9loud”“殿と大奥”等のバンド活動も続け、メンバーの世代やジャンルにとらわれる事無く、数多くのセッションをこなす。常にトップランナーとして走り続ける男・鳴瀬喜博、その幅広いプレイからますます目が離せない。

栗本斉(くりもと・ひとし)
音楽と旅のライター、選曲家。レコード会社勤務の傍ら音楽ライターとして活動を開始。退社後は2年間中南米を放浪。帰国後はフリーランスで雑誌やウェブの執筆、ラジオや機内放送の構成選曲、コンピレーション・アルバムの企画監修などの他、テレビ、ラジオなどのメディア出演やトークイベントなども行っている。
著書『「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!』『「90年代J-POPの基本」がこの100枚でわかる!』(星海社新書)、『シティポップ短歌』(伊波真人との共著・遊泳舎)他多数。

『夏への扉 ~ 難波弘之アンソロジー』
発売日:2026年8月26日
≪収録内容≫
01 夏への扉/難波弘之
02 アルジャーノンに花束を/難波弘之
03 グリーン・レクイエム/Sense Of Wonder
04 ドリーム・トラベル/Sense Of Wonder
05 まほろば’99/野獣王国
06 時潮(THE TIME TIDES)/野獣王国
07 Progroove/A.P.J.
08 今夜限り世界が/難波弘之
09 でも誰もいない ~ 骸骨を乗せた宇宙ステーション/難波弘之
10 ココロと心臓/難波弘之
11 浮遊/難波弘之
12 メッセージ(45周年ライヴ・ヴァージョン)/難波弘之 *
13 百家争鳴(45周年ライヴ・ヴァージョン)/難波弘之 *
*Bonus Track




