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【高橋幸宏 特集】高橋信之×小原礼×東郷昌和×小林啓子 座談会インタビュー[前編]

本サイトのオープンを記念した第1弾特集として、逝去から1年が経ち、ライブ映像の劇場上映や展覧会の盛況ぶりが話題になるなど、今もなお多くのファンに愛される高橋幸宏の特集を実施。

特集の最後を飾るのは、高橋幸宏の実兄・高橋信之、小原礼、東郷昌和(BUZZ)、小林啓子の4名による座談会インタビュー。
思い出の地に集い、貴重なエピソードの数々を振り返りながら"高橋幸宏の人物像" "共に制作した音楽作品"に迫るインタビューを
前・後編の2回にわたってお届けする。

進行・文:馬飼野元宏 / 写真:Ryoma Shomura

2024.7.24

――今回、お集まりいただいた皆さんは、お兄様の高橋信之さんはもとより、10代の頃から高橋幸宏さんと交流があり、共に音楽活動をしてきたお仲間です。その皆さんに幸宏さんのアマチュア時代からの音楽活動を振り返っていただく座談会になります。まずは、お兄様の信之さんですが、グループサウンズのブームだった60年代、ザ・フィンガーズのリーダーとして活動していた時期のことからお話しください。

高橋 フィンガーズは最初、アマチュアバンドの頃はテイチクから出てるんです。石原裕次郎さんがテイチクで、僕らが勝ち抜きエレキ合戦で優勝したのを見て、「そうか俺の慶應の後輩か」て言ったらしくてね。それで最初はテイチクからデビューしたんです。

小林 その後、キングに移ったのね。

――東郷昌和さん、小原礼さんがそれぞれ幸宏さんと出会ったのはいつになりますか。

東郷 5歳ぐらいから知り合いでした。信之さんとうちの兄が同級生で、うちの姉と幸宏の姉さんが同級生で、僕と幸宏が同級生。小学校はみんな一緒で、僕も小学校に受かった時からもう仲良くなって、また一緒だね、よろしくね、みたいな関係。しかも「高橋」と「東郷」だから、出席番号も必ず次なんですよ(笑)。信之さんは僕らの6つ上で、僕と幸宏が高校でアマチュアバンドをやっている時、信之さんはフィンガーズでもうプロになっていて、作曲家でした。

小原 僕は林立夫と中学から一緒で、中学1、2年の頃にムーヴァーズっていうバンドを組んでいました。だから林とは60年一緒。親より長い(笑)。幸宏とは高校の最後の頃、林とSKYEをやっている時期に、細野(晴臣)さんの紹介で知り合ったんです。

東郷 その頃、僕は幸宏と「ブッダズ・ナルシーシー」というアマチュアバンドをやっていて、ある時、対バンでバーンズと一緒になるんです。バーンズは細野さんと、ドラムで松本隆さんがいたバンドで、その時、幸宏と2人で「あのバンド、なんだか知らないけどベースがめちゃくちゃ上手いよね」って話していて。その後、軽井沢にある高橋家の別荘で練習していたら、細野さんが自転車でやってきて「君たちうまいね。君たちと同じように、僕の友達ですごいグループがいるから紹介するよ」って言われて。東京に帰って青山学院の文化祭で紹介された、それがSKYEでした。

小原 そうそう、それでブッダズ・ナルシーシーの演奏を見たんだけど、その時(ジミ・ヘンドリックスの)「ストーン・フリー」とかやってた。

東郷 そうしたら今度はあるパーティの対バンで、ザ・フローラルと出会うんです。その時、幸宏と「俺たちの共演相手、プロになりたいらしいよ」「そうか。じゃあやる気なくさせてやろうぜ」なんて話していて(笑)。僕らはヴァニラ・ファッジから入って、お手並み拝見だね、なんて余裕かましてたら、あっちはドアーズの「When the Music’s Over」をやって、うわ、かっこいい!(笑)。初めてカッコいいと思えるシンガーに出会ったんです。それが小坂忠。

小原 また、忠さんの声がかっこいいからね。そういえばあの時、キーボードが弾けなかった柳田ヒロが練習して、ドアーズの「ハートに火をつけて」が弾けるようになって、あの曲もやっていた。ヒロは最初ギタリストだったから。

東郷 そうそう、フローラルがモンキーズの前座に出た時、忠さんがギター弾いてるんだけど、あれってヒロのギターなんだよ。忠さんはギター持ってなかったから。

小原 ヒロのお兄さんは立教で細野さんと同級だったんですよ。立教で「PEEP」っていう音楽サークルをやっていて、僕はそこのイベントにムーヴァーズで出たことがある。

東郷 アマチュアバンドが集まって演奏するサークルで、他の大学のやつでも出演OKだった。信之さんも慶應で「風林火山」っていうイベントをやっていたし。

――大学間を横断した交流があったんですね。ところで、その時期、幸宏さんがお兄さんのフィンガーズに参加したことがあったと聞きましたが。

高橋 それはね、僕が軽井沢の三笠会館にある「三笠ハウス」というレストランで、毎晩キャンドルライトパーティ、要はダンパをやってたので、そこのバンドとして出演していたんです。夏休みの8月に2週間かな。フィンガーズのドラマーは関口(恵一)さんって人だったけど、大学4年でゼミがあるから出演できないってことになって、困っていたら成毛滋が「幸宏がいるじゃん」って言ったんだよ。というのも、俺がそんなことを言っても通らない。成毛は音に関してはとてもこだわるから、でも幸宏のドラムは認めていたんだ。

小林 でも、いつ彼のドラムを聴いたんでしょうね。

高橋 練習の時、時々叩かせてもらっていた。それを知っていたから幸宏でやろうよ、という話になった。ちょうどあいつが15歳か16歳の頃だね。フィンガーズのバンドリーダーは僕だったけれど、技術的なことは、とにかく成毛が決めないと何も進まなかった。

東郷 その後フィンガーズがデビューして、その後を受け継いで僕と幸宏のブッダズ・ナルシーシーが三笠ハウスでやるようになったんです。

――ブッダズ・ナルシーシーは、当時TBSの若者向け情報番組『ヤング720』に出演したことがあったそうですが、その時、ピアノで荒井由実さんが参加されたとか。

東郷 そう、ユーミンは当時、フィンガーズの追っかけをやっていて、「私、曲も書けます」ということでノブさん(信之氏の愛称で、幸宏がそう呼び始めた)に聴かせたんです。それをノブさんが「おっ」と思って、僕に電話してきて、僕が歌うことになった。それで『ヤング720』に出演する時、セッションでユーミンがピアノを弾いて、幸宏のドラムで僕が歌ったんです。それが「マホガニーの部屋」という曲。

――のちに「翳りゆく部屋」としてユーミンがリリースする作品の原型ですね。その後、「マホガニーの部屋」はメロディーだけが採用されて、「愛は突然に」という楽曲になり、加橋かつみさんが歌うことになりました。

東郷 確かあの時、景山民夫さんがTBSの下請けのライターをやってたんだよ。

小林 そうそう、私もその頃、よく景山さんと仕事しましたよ。

――ユーミンは1973年にファースト・アルバム『ひこうき雲』を発表しますが、その1年前にシングル「返事はいらない」を出しています。この際のレコーディング・メンバーに幸宏さんと小原さんが参加しているというお話ですが。

小原 僕がやってるって話、らしいです(笑)。あれ、ムッシュ(かまやつ)がプロデュースしたんだよね。ガロも参加しているそうだし。

東郷 96年にユーミンが中野サンプラザで荒井由実コンサートを開催した際、「返事はいらない」の演奏も、幸宏が叩いていたしね。

高橋 かまやつさんは僕に似ていて、若い人を引っ張り上げたい、育てたいという感覚がある人だからね。すごく新しい人たちを大事にしていた印象がある。

キングレコードから高橋信之プロデュースで世に送り出された
小林啓子、BUZZ、そして幾多のミュージシャンたち

――信之さんは、ザ・フィンガーズ解散後、CMソングを制作する作曲家となり、同時にプロデューサー業をスタートさせます。

高橋 ザ・フィンガーズを解散して、プロデューサーになって、最初にキングでやった仕事が小林啓子のシングルです。ただ、レコーディングした時、僕のイメージには幸宏のドラムがあるじゃない?だけど、実際はおじさんが譜面見ながら、リムショットみたいな叩き方で、そこに弦が入って、せーのでやるんだけど、音を聞いたら歌謡曲なんだ。その時、世の中がポップな感じに変わってきているのに、今までの歌謡曲の時代のやり方じゃダメだな、と思った。

小林 「こわれた愛のかけら」。私のデビュー曲です。この時、ジャケットにも書いてあるんだけど「キャンパスポップス」って言い方をしていたんです。東芝が「カレッジポップス」っていう呼び方をしていたから、それに対抗して作ったんですよ。ビリー・バンバンも同じ頃に出てきて、一緒にアルバム(『ゴールデン・フォーク・ジャンボリー』)も出しました。そしてこの曲がきっかけで、新しい音を作ろうということになって、幸宏さんたちも参加しているんです。

高橋 この頃の小林啓子って、当時の学生たちのマドンナ的な存在だったから。

東郷 でも、ジャケットの写真、不機嫌そうだよね(笑)。

小林 演歌のレコードみたいで、すごくがっかりしたんですよね。でも、確かにこんなに睨むこともないけどね(笑)。

高橋 小林啓子ではアルバム3枚作って、ベースは全部小原が弾いている。それも、最初のシングルの音を反省して、キングの安藤(賢次)さんという、その後小林啓子やBUZZのディレクターになる人に、「小林啓子の音はこんなのでは困る」と進言したんです。その時、安藤さんはまだ小林啓子のディレクターではなかったけど、彼女のアルバムを作るときに、「ミュージシャンは僕に任せてもらえるならやります」と言ったんだ。それが『あげます』なんです。

小林 まだこの頃は、最初はカバーじゃないと、オリジナルはダメだったんです。シングルが売れるようになったら、カバーのアルバムを出して、次がオリジナルで、という時代だったから。それでお恥ずかしながら(キャロル・キングの)「YOU’VE GOT A FRIEND」とか「IT’S TOO LATE」なんて歌ってる。それはノブさんの選曲です。

高橋 洋楽っぽい女性のボーカリストでやりたかったんだよね。

小林 2枚目の『かなしみごっこ』がオリジナルで、ここからPOPSHOPのレーベルになるんです。

高橋 小原とか幸宏とか、その後お馴染みになるメンバーは全員入れた。BUZZはコーラスをやってくれたし、ガロもいるし、ユーミンもピアノで入っている。

東郷 あと、松任谷(正隆)もアコーディオンを弾いているんだよ。

小林 幸宏さんが「昼下り」という曲で、作詞と作曲をしてくれました。兄弟でアレンジまでやっています。

高橋 幸宏はヘッドアレンジでベースを作って、僕がその後に弦とかを入れたんだと思う。メロディーは、書いた詞を読んでいたときに、一緒に出てきたって言っていた。

東郷 そうして、BUZZの結成につながっていくんですが、その前に高校の頃に、僕も小原も、信之さんにスタジオ・ミュージシャンとしてCMの世界に送り込んでもらったんです。そんな時、幸宏に「誰かもう1人歌える人が欲しい」と僕が頼んだら、幸宏が手伝っていたインディアン・アップルというバンドのヴォーカルを紹介されたんです。それが小出博志だった。幸宏の組み合わせって奇抜で、博志みたいな柔らかい声と、僕みたいな声でやったら面白いだろうと。最初はびっくりしたよ、だって博志はピーター・ポール&マリーのマリー役をやってたんだもん。綺麗な高い声が出せる、僕はハードロックだから、幸宏曰く、その相反するのが面白いよね、と。細野さんと教授(坂本龍一)もそうだけど、相反するところの天才を合わせないでどうするんだ、とよく言っていたよ。

高橋 当時、サイモン&ガーファンクルがかっこいいなと思っていて、アート・ガーファンクルの高い声と、ポール・サイモンの低くて味のある声の組み合わせがね。ああいうグループ日本でやったらどうなる?と、ずっと思っていたら、幸宏が東郷と小出を紹介してきた。つまり、歌謡曲じゃない、ポップな、洋楽的感性を持った日本のロックだよね。そのために必要なサウンド作りが、幸宏のドラムだったり、小原のベースだったり、ユーミンのキーボードだった。歌謡曲のレコーディングは、おじさんたちが譜面を見て、指揮棒振ってそれに合わせて演奏している時代。彼らをそんなところには連れて行けないからね。オフコースも出てきたけれど、彼らはまだサウンド的には新しくはなかった。

東郷 オフコースは、僕らの6つ上だけど、僕らの影響はかなり大きかったらしい。

高橋 その後、小田くんとは何度かお仕事させてもらったけれど、大ヒットしたJRAのコマーシャルの時の打ち合わせで、「僕、BUZZのサウンドには本当にショックを受けたんですよ」と言っていたから。

――そのBUZZのファースト・アルバム『BUZZ』のジャケットのイラストは、小原さんの作だそうですね。

小原 ベースをやりながら、イラストも描きました(笑)。そっくりだよね。

東郷 これ、スタジオの調整卓で、ほんの10分か15分ぐらいでササッと描いていたのを覚えてる。ディレクターの安藤(賢次)さんがいいな、と言い出して、僕も見たら「いいじゃん、これアルバムのジャケットにしようよ」ってその場で決めた。

――この頃、幸宏さんは小原さんとサディスティック・ミカ・バンドに参加します。

小原 ミカ・バンドはこの前に一枚「サイクリング・ブギ」っていうシングルを出していて、その時のドラムはつのだ☆ひろ。その後、アロハのジャケットのアルバム(『SADISTIC MIKA BAND』)を作る前につのだ☆ひろが自分のことをやりたいから抜けたい、と言って、トノバン(加藤和彦)と話して誰かいないか?と。それで僕が幸宏を紹介するよ、と言ったんです。そうしたら2人は偶然、ロンドンかどこかで会ったことがあるらしく、幸宏は「君の事を小原から聞いているよ」と言われたらしい。それでファーストアルバムのレコーディングに入るんです。

高橋 そういう流れだったのか。

小原 ガロのバックで幸宏とやっていたのもあって、トノバンに幸宏を紹介しようと思っていて。林も中学の時から知り合いだったけど、ミカ・バンドには林より幸宏の方があうと思ったんだよね。

東郷 林は細野さんとキャラメル・ママを始めていたし。

小林 みんなその時代から一緒にやっているのね。

高橋 あの時代は、新しいロックやポップスで、日本でちゃんとビジネスになるかどうかの分かれ道だった。トノバンのやっていたことはその筆頭で、ああいう形のロックで、世界に出て行こうとした。そんなことはそれまでの日本の音楽界ではありえないこと。僕はフィンガーズを解散した後、作曲家になりたいからと言っていて、ビクターの有名なヒットメーカーのディレクターを紹介されて、曲を持って行ったことがある。でも、聴いた瞬間「これ無理だから」って言われた。「こういうことをやりたいなら、まず歌謡曲をヒットさせて、それから自己満足でおやりなさい」と言われた、60年代の終わりはまだそういう時代です。

東郷 演歌か歌謡曲、そうでなければフォーク。森山良子さんとかもいたので、若者たちの間でフォークは流行っていた。

高橋 日本では、フォークはビジネスになると思われていたけど、ロックはまだそこまで行っていなかった。でも若い子達の支持を受けているから、プロの作曲家が作って歌わせれば売れるんじゃないか?ということで、ゴールデン・カップスだってシングルの曲は作曲家の先生が作っていた時代。そのくらいロックはビジネスにならなかった。その意味では、幸宏たちがミカ・バンドを初めて、あの『黒船』が売れた、というのはすごいことだよね。

小原 『黒船』は、当初は売れなかったんだけど、後から売れてきたらしいんです。

――ちょうど同じ1973年に、BUZZのライヴ・アルバム『BUZZ LIVE!』が発表されています。この時のメンバーがすごいですね。

小原 これは僕も入ってるよね。ちょうどミカ・バンドを始めた頃だから、高中(正義)もいるね。

東郷 それでドラムが幸宏で、林立夫がパーカッションをやっているの。さらにシンセサイザーがトノバン。

高橋 新宿厚生年金会館小ホールでのライブだね。僕がプロデュースしている。

東郷 信之さんは指揮もやっています。

高橋 それは弦と管が入っているから。

小林 そんな大所帯だったんだ。

東郷 啓子さんも入ってるよ。司会か何かやったんじゃない?

小林 そうだっけ?(笑)。でもなんでトノバンがシンセサイザーなの?

高橋 「僕も一緒に何かやらせてよ」って言ったんだけど、楽器は他に上手い人がいるし、どうしようかと思っていたら、その頃、トノバンがコンパクトなシンセサイザーを持っていて、すごくいい音がしたから、じゃあそれで出てくれって。

小原 トノバンはアコギは上手かったけれどね。確かそれアルプのシンセじゃなかったかな、もしくはオデッセイ。

高橋 それを弾くから、っていうことで風の音をヒューっと入れてくれたりしたよ。

――それにしてもすごいメンバーで、ある意味、高橋信之さんの人脈で、これだけのメンバーが集まるという一つの証明でもあります。幸宏さんをはじめとする周辺の人たちの初期の活動が手に取るようにわかりました。

小原 ノブさんなしには、僕も幸宏もこの世界に入ってないからね。

高橋 そういう意味できっかけは与えたよね。それはいろいろな人に言われる。小坂忠も、久しぶりに松任谷(正隆)くん演出のステージでやった時(新日本製薬presents SONG&FRIENDS 小坂忠『ほうろう』/2018年11月26日・東京国際フォーラムホールA)、楽屋に行ったら、忠が「ノブさんのおかげで俺はこの世界にいる」っていきなり言い出して。その時、僕が忠に「いや、結果そうなっただけで、ダメなやつはダメなんだ。それを活かしたのは君たちだよ」って話した。

東郷 でも、ノブさんは、僕と幸宏がアマチュアバンドをやっていた時でも、ちゃんと人を選んでいたのを覚えている。信さんが声をかけなくて、プロにならなかった奴らもいっぱいいたから。

小林 そこはちゃんと選んでいるのね。

小原 先見の明があった、ということだね。

高橋 いや、単に才能があるかないかだよ。才能があったんだよ、君たちは。

[取材協力]
『一億』
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電話:03-3405-9891
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定休日:日曜、祝日、年末、お盆休み、年始、他

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