JA

COLUMN

COLUMN

誇り高き「非主流」――日本のフォーク〜ロックを牽引した伝説的レーベル=ベルウッド・レコードの歩み

音楽評論家の柴崎祐二氏と共に過去の音源を探求し、日本の音楽の奥深さと魅力に迫っていく連載『Unpacking the Past』
第二回目のテーマは"J-Folk rock"

60年代後半から70年代に黎明期を迎えた日本のフォーク。
当時の若者たちの間でムーブメントを巻き起こしたフォークは、次第にロック・シーンと融合し、
ニューミュージックという新たなジャンルを生むきっかけとなる。
邦楽を語る上で極めて重要な同時代の作品に関して、筆頭的存在であるベルウッド・レコードの音源を中心に日本のフォーク/ロックを深掘る。

文・構成:柴崎祐二 / アートワーク:清水真実

2024.12.20

___________________
――はっぴいえんどはかつて今ほど評価されてなかった
柴崎祐二による曽我部恵一インタビューはこちら
『Unpacking the Past vol.2』”J-Folk rock” 曽我部恵一インタビューpart1

『Unpacking the Past vol.2』”J-Folk rock” 曽我部恵一インタビューpart2
___________________

1960年代後半から1970年代初頭にかけて。日本の音楽シーンは、かつてないほどのめまぐるしい変化の只中にあった。数ある新潮流の中でも特に若者たちの強い支持を集め、その後のニュー・ミュージックやロックの発展に大きく寄与することになった存在こそが、フォークだった。当初は、都市部の学生を中心に支持された穏健な「キャンパス・フォーク」が主流であったが、ボブ・ディランピート・シーガーの影響を受けてフォーク・ソングを歌いはじめた高石ともや(当時は友也)の登場をきっかけに、中川五郎岡林信康といったシンガーも活動を始め、いわゆる「関西フォーク」が隆盛することになった。彼らのレパートリーは、同時期に盛り上がりを迎えていた反戦運動の中でも(替え歌を経ながら)盛んに歌われるようになり、フォーク・ソングは、カウンター的な政治性と密接に結びつきながら発展していく。

こうした一連の流れの中にあって、1969年には、高石ともやのプロダクションである「高石音楽事務所」が、インディーズ・レーベル=URCレコードを設立。同社は、旧来のレコード制作基準倫理委員会の規定に縛られない野心的なリリース活動を繰り広げ、フォーク・ソングのレコードを続々と世に送り出していった。

1970年代に入ると、URCと提携の上フォーク系作品のリリースを行っていたビクターに続く形で、各メジャー・レコード会社も次第に市場へ参入していく。しかし、この時点ではいまだアンダーグラウンド発のフォークは「異端」の存在で、各会社内で即重要な地位を与えられたわけではなかった。

それはキングレコードにおいても同様で、フォーク系レコードの制作は、花形の歌謡曲部署ではなく、文芸部教養課が担っていた。当時の同課で制作のアシスタント業務を行っていたのが、1968年入社の三浦光紀だ。1970年、三浦は、先輩ディレクター小池康之からある人物を紹介された。それが、PPMフォロワーズ時代から東京のフォーク・シーンで活動し、URCからのリリースもある六文銭のメンバー、小室等だった。早速三浦は、小室とともにフォーク・ギターの教則レコード『フォーク・ギターの世界』(同年9月1日発売)を制作する。この経験をきっかけとして、三浦は急速にフォークへと傾倒していった。

フォーク・ギターの世界 – (監修・歌・ギター)小室等/小林雄二

同じ頃三浦は、現在の野外フェスティバルの原型ともいえるベント「全日本フォーク・ジャンボリー」の第二回目が、8月8日から9日にかけて岐阜県の中津川で開催されることを知る。これは、URCおよび(高石音楽事務所改め)音楽舎のアーティストが大勢出演する催しでもあり、当時のフォーク・シーンの興隆を象徴する一大イベントだった。どうにかしてその模様を録音したいと考えた三浦は、会社からの許可が得られなかったのにもかかわらず、夜中にこっそり録音機材を持ち出し、現地でのレコーディングに漕ぎ着けた。なんとか事後承認を得た彼は、その成果を『自然と音楽の48時間 ‘70全日本フォークジャンボリー実況録音』(同年10月10日発売)という2枚組LPにまとめた。荒削りな録音ながら、当時の興奮がダイレクトに伝わってくる内容で、資料的価値の面からも大変貴重な作品といえる。

自然と音楽の48時間 ’70全日本フォーク・ジャンボリー実況盤

フォークジャンボリーの現場で数多くのアーティストの演奏を録音する中で、三浦にもっとも強烈な印象を与えたのが、URCからデビュー・アルバム『はっぴいえんど』(1970年8月5日発売)をリリースしたばかりのロック・バンド、はっぴいえんどだった。彼らは、フォーク界随一のスターであった岡林信康のバック・バンドとして登場した他、単独でも鮮烈なパフォーマンスを行った。

どうしてもこのバンドと仕事をしたいという強い思いを抱いた三浦は、年内から早速行動に移す。バンドとともにシングル用のレコーディングを行い、アルバムのリリース元であったURCとの交渉の末、翌年2月録音のテイクをシングル「12月の雨の日/はいからはくち」としてリリースしたのだ(1971年4月1日発売)。実をいえば、はっぴいえんどの最高傑作として名高いセカンド・アルバム『風街ろまん』(1971年11月20日発売)も、その流れを引き継ぎ、元々はキングからリリースされる予定であった。実際に三浦は同作のレコーディングに関わっており、クレジットにも彼の名が確認できる。しかしながら、URCとの交渉を経て、名盤『風街ろまん』は、結果的にURCの側から発売されたのだった。

12月の雨の日/はいからはくち – はっぴいえんど

フォーク・ジャンボリーでは、もう一つ重要な出会いがあった。三浦は、当時のフォーク・シーンで一際異彩を放っていた高田渡の楽屋を訪ね、キングでアルバムを制作したい旨を告げた。高田の承諾を得た三浦は、1971年1月、はっぴいえんどのメンバーを交えたレコーディングをセッティングし、高田の通算3枚目のアルバムにして最高傑作に推す声も多い名盤『ごあいさつ』(1971年6月1日発売)を完成させた(後には、高田擁する和製ジャグ・バンド=武蔵野タンポポ団による実況録音盤『武蔵野タンポポ団の伝説』(1972年1月10日発売)もキングからリリースされた)。

ごあいさつ – 高田渡

武蔵野タンポポ楽団の伝説 – 武蔵野タンポポ楽団

前後して、先述の小室等が現代詩に曲をつけた野心的なファースト・ソロ・アルバム『私は月には行かないだろう』(同年5月10日)も発売されるなど、社内におけるフォーク系のカタログへの風向きも、少しずつ変わりつつあるように思われた。しかし、スタジオ使用等にまつわる会社からの制約は相変わらず厳しく、彼の思うようなレコード制作案を押し通すためには、いまだ売上面での実績が不足していた。そこへ天佑のようにもたらされたのが、上條恒彦と六文銭の楽曲「出発の歌」(1971年11月25日発売)の大ヒットだった。この曲は元々、1971年開催の合歓ポピュラー・フェスティバルのために急造された曲だったが、同コンテストでまさかのグランプリを獲得したことで、ヒットへと繋がったのだ。

出発の歌 – 上條恒彦/六文銭

1972年春。いよいよ準備は整った。三浦は、先述の同僚・小池らとともに、キング内に新レーベル「ベルウッド・レコード」を設立する。レーベルの名前は、三浦を支援してくれた文芸部長、鈴木実の名字からとった。オリジナルのロゴも作成した。はじめはキング社内のデザイナーが手掛けたものが採用されたが、後に、現在よく知られている立体的な松ぼっくりを描いたロゴへと変更された(こちらのデザインを手掛けたのは、高田渡の兄、驍である)。

第一弾のリリース作品は、第3回全日本フォーク・ジャンボリー(1971年8月開催)での実況録音に衝撃を受けたことからレーベルへ誘ったあがた森魚のシングル「赤色エレジー」、それに、既にURCからアルバムをリリースしていた友部正人によるシングル「一本道/まちは裸ですわりこんでいる」、六文銭のアルバム『キングサーモンのいる島』、高田渡の新作『系図』、そして、秋田出身のシンガー・ソングライター山平和彦によるファースト・アルバム『放送禁止歌』だった(すべて同年4月25日発売)。

一本道/まちは裸ですわりこんでいる -友部正人

赤色エレジー – あがた森魚

この中から、早くもレーベル初のヒットがもたらされる。あがたの「赤色エレジー」が、オリコン週間7位につける好セールスを上げたのだ。これは、当時のフォーク系新人アーティストの記録としては、驚くべきものだった。

これに勢いを得たように、ベルウッドは続々リリースを重ねていく。元ザ・ディランの西岡恭蔵がシンプルなバック演奏とともに作り上げた出色のソロ・デビュー作『ディランにて』(1972年7月25日発売)をはじめ、はっぴいえんどの大滝詠一のソロ・アルバム『大瀧詠一』(同年11月25日発売)や、アメリカ録音によるはっぴいえんどの最終スタジオ作『HAPPY END』(1973年2月25日発売)等が送り出された。

大瀧詠一 – 大瀧詠一

HAPPY END – はっぴいえんど

しかしながらこの時期、ベルウッドの母体キングレコードは経営不振にあえいでいた。当時社内の人間関係に悩んでいた三浦は、早期退職者の募集に応じて一度は退職を申し出るが、キングレコード社長(当時)町尻量光から若い人間が辞める必要はないと諭され、逆に、ベルウッドを会社化してはどうかと提案された。それを受け、彼は小池らの他スタッフとともにキングから独立し、「キング・ベルウッドレコード株式会社」を立ち上げたのだった。

会社化を経たベルウッドは、その後も変わらず順調なリリースが続けていく。はっぴいえんど解散後の細野晴臣が狭山アメリカ村の自宅で録音した不朽の名作『HOSONO HOUSE』(同年5月25日発売)をはじめ、六文銭のメンバー及川恒平が味わい深いポップセンスを聴かせるソロ作『忘れたお話』(1973年6月10日発売)、『HOSONO HOUSE』に参加した細野擁する新バンド=キャラメル・ママがバックを受け持ったスワンプ・ロック色強い南正人『ファースト・アルバム』(同年8月25日発売)、更には、あがた森魚のバック等、数々の演奏経験を持つメンバーが集ったロック・バンド=はちみつぱいによる名盤『センチメンタル通り』(同年10月25日発売)等、次々と充実作が発表された。

HOSONO HOUSEHOSONO HOUSE – 細野晴臣

ファーストアルバム – 南正人

センチメンタル通り – はちみつぱい

この頃に至ると、数年前まで世を賑わしていた直接的なプロテスト・ソングは音楽シーン内ですっかり鳴りを潜め、、「連帯」から「個」の時代へと移っていく1970年代前半の潮流と呼応するように、個人の内面や繊細な情景描写を主題とする作品・楽曲が多数を占めるようになる。サウンド面でも、粗削りでシンプルな弾き語りの形態から、バンドを伴った洗練されたものへと移行していった。いわゆる、「ニュー・ミュージック」の時代が幕を開けようとしていたのだ。

しかし、それでもなおベルウッドの作品は、ビクターやポリドール、CBSソニー、クラウンといったメジャー・レーベル、および有力インディーズのエレックが送り出すものと比べると、格段に「オルタナティブ」な存在感を放ち続けていた。1974年には、これまで述べてきたアーティストたちの新作等と並行して、URCから移籍してきた大物・加川良が強力メンバーを交えて録音した傑作『アウト・オブ・マインド』(11月10日発売)や、名曲「あしたはきっと」の原作者いとうたかおによる待望の初アルバム『いとうたかお』(5月10日発売)、オリジナル・ザ・ディラン『悲しみの街』(4月25日発売)、ディランⅡ『この世を悲しむ風来坊に捧ぐ』(9月25日発売)などが登場した。これら各作に刻まれた硬質なボヘミアン志向と、随所で披露されるルーツ・ロック色の強い豪放な演奏を聴けば、同時代の主流フォーク〜ニュー・ミュージックに比べ、当時のベルウッド作品がいかに気骨溢れたものであったかが、はっきりとわかるだろう。

アウト・オブ・マインド – 加川良

いとうたかお – いとうたかお

しかし、黄金時代の終わりはあっけなくやってくる。入社時から何かと三浦の仕事を後押ししてきた尊敬すべき上司・長田暁二が、社内のトラブルをきっかけに退社してしまうことになったのだ。日頃から恩を感じていた三浦は、長田のいない環境でやっていくのは難しいと判断し、1974年いっぱいで自身も退職することを決意する。その後三浦はアメリカへと出国してしまうが、数カ月後には帰国し、以前から誘いがあった日本フォノグラムへ、ベルウッドの一部スタッフとともに移籍したのだった。それにあわせて、高田渡やいとうたかお、南正人、及川恒平等、旧ベルウッドのアーティストの一部も同社へと移籍していった。

幸い、小池を中心に制作を継続していくことで、ベルウッドが消滅してしまうことはなかった。しかし、レーベル・カラーを決定づけていた三浦の不在はやはり大きく、様変わりを実感させるリリースも少なくはなかった。

それでも、是非聴くべきフォーク系の秀作は数多い。例えば、シンガー・ソングライターの朝野由彦による詩情豊かなフォーク・ロック作『巡礼』(1975年11月5日発売)。GWANさんこと佐藤博(ハックルバック他で活動した鍵盤奏者とは同名異人)が坂本龍一らを各曲のアレンジャーに迎えた『青空』(1976年11月21日発売)。他にも、URCでもリリース歴のあるシバこと三橋誠によるブルース色強い『夜のこちら』(1977年11月21日)や、元六文銭の原茂がシティ・ミュージック風のサウンドに挑戦した『オレンジ色の朝』(1978年3月21日)、そして、関西フォークのオリジネーターの一人=中川五郎『また恋をしてしまったぼく』(1978年5月21日発売)も、前期ベルウッドのファンに是非おすすめしたい内容となっている。また、三浦在籍時に展開されたシリーズを引き継ぐ形で、大阪の天王寺公園野外音楽堂で毎年開催されたコンサート「春一番」の実況録音盤も継続して発売された他、1974年に池袋のシアターグリーンで行われた通年ライブ「ホーボーズ・コンサート」の模様を収めた計7枚のライブ盤もリリースされた。

青空 – 佐藤博

オレンジ色の朝 – 原茂

フォーク〜ロックの文脈を離れるならば、初期ビートルズ・スタイルのロック・バンド=ザ・ルーキーズの諸作や、先だってリイシューされたピラニア軍団の同名作(1977年5月21日発売)、元ハプニングス・フォーのクニ河内のソロ作『愛はまだ氷りついたまま』(1977年9月21日発売)等、他にも聴くべきものは多い。

ピラニア軍団 – ピラニア軍団

愛はまだ氷りついたまま – クニ河内

加えて、レーベルとしての活動を休止した1978年以降、キングからベルウッドの名を冠してリリースされた諸作にも名作がある。遠藤賢司がクラフトワークやセックス・ピストルズに衝撃を受けて制作した歴史的名盤『東京ワッショイ』(1978年12月5日発売)はもちろんのこと、三上寛『負ける時もあるだろう』(同年7月21日発売)、友川かずき『俺の裡で鳴り止まない詩~中原中也作品集』(同年8月15日発売)、同『犬・秋田コンサートライブ』(1979年7月21日発売)、加川良と村上律による『加川良、ウィズ、村上律。(A LIVE.)』(1983年1月21日)等、フォーク〜ロック・ファンならば是非聴いておきたい作品が残されている。

東京ワッショイ – 遠藤賢司

俺の裡で鳴り止まない詩~中原中也作品集 – 友川かずき

ベルウッドの創設者であり、その後の日本の音楽シーンにとって重要な活躍を続けた三浦光紀の当時の手帳には、2つの理念が書きつけてあったという。曰く、「アーティスト至上主義」、そして「レコード芸術の追求」。

ベルウッドが掲げた理想は、今となってはあまりにナイーブなものに感じられるかも知れない。しかし、誇り高き非主流として理想を守り抜こうともがいたベルウッドが、結果としてフォークとロック、そしてニュー・ミュージックの道を切り開き、後の日本のポップ・ミュージックの重要な源泉のひとつになっている事実を想うならば、その理念には、ただナイーブさや高潔さだけでなく、何やら希望めいたものを感じないわけにはいかない。

そう。ベルウッドの各作に刻まれた当時の音、空気、気概は、現在と未来のポップ・ミュージックの可能性を映し出す、優れた投影灯であり続けているのだ。

 

参考文献:
『ストレンジ・デイズ』2000年8月号(ストレンジ・デイズ)
『ロック画報』03号(ブルース・インターアクションズ 2000年)
黒沢進著『日本フォーク紀 コンプリート』(シンコーミュージック・エンタテイメント 2009年)
奥和宏著『ベルウッドの軌跡』(インプレスR&D 2016年)


interview video episode1 曽我部恵一のルーツ / サニーデイ・サービスの秘話 / “3大フォークレーベル”について

PLAY LIST
曽我部恵一セレクト 日本のフォーク・ロックの世界を堪能する”ベルウッド・レコード”
https://UPTPKeiichiSokabe.lnk.to/knIB9SyP

1.それはぼくぢゃないよ/大瀧詠一(『大瀧詠一』収録)
2.大道芸人/あがた森魚(『乙女の儚夢』収録)
3.とめ子ちゃん/ごまのはえ(『春一番コンサート・ライブ!』収録)
4.塀の上で/はちみつぱい(『センチメンタル通り』収録)
5.紫陽花/南正人(『南正人ファースト』収録)
6.プカプカ/西岡恭蔵(『ディランにて』収録)
7.犬/友川かずき(『桜の国の散る中を』収録)
8.負ける時もあるだろう/三上寛(『負ける時もあるだろう』収録)
9.僕の倖せ/はちみつぱい(『センチメンタル通り』収録)
10.東京ワッショイ/遠藤賢司(『東京ワッショイ』収録)
11.踊ろよベイビー/遠藤賢司(『春一番ライブ’74』収録)
12.あしたはきっと/いとうたかお(『いとうたかお』収録)
13.鎮痛剤/高田渡(『系図』収録)
14.恋は桃色/細野晴臣(『HOSONO HOUSE』収録)
15.氷雨月のスケッチ/はっぴいえんど(『HAPPY END』収録

■プロフィール

柴崎祐二(しばさきゆうじ)
1983年、埼玉県生まれ。評論家/音楽ディレクター。2006年よりレコード業界にてプロモーションや制作に携わり、多くのアーティストのA&Rを務める。単著に『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす 「最文脈化」の音楽受容史』(イースト・プレス 2023年)、『ミュージック・ゴーズ・オン~最新音楽生活考』(ミュージック・マガジン、2021年)、編著書に『シティポップとは何か』(河出書房新社、2022年)等がある。

SOUND FUJI×柴崎祐二『 Unpacking the Past vol.1』”J-FUSION” part1 対談 ゲスト:トリプルファイヤー鳥居真道

BACK TO LIST

COLUMN

COLUMN