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稀代のヒットメーカー・井上ヨシマサ 作家デビュー40周年記念インタビュー【後編】

作家デビュー40周年を記念して、これまで楽曲を提供してきたアーティスト10名とデュエットしたアルバム『再会 ~Hello Again~』をリリースした井上ヨシマサへのインタビュー。後編ではあまたのヒット曲を生み出してきたこれまでのキャリアを振り返ってもらう。このたび各配信サイトで公開された2つのプレイリスト『Yoshimasa Inoue Works(昭和編)』『Yoshimasa Inoue Works(平成~令和編)』を聴きながらお読みいただければ幸いである。

進行・文:濱口英樹 / 写真:Ryoma Shomura

2024.8.7

(前編からの続き)

――ここからは井上さんの音楽キャリアや仕事におけるポリシーなどを伺います。それに先立ちJASRACのデータベースを調べたところ、井上さんの作品は652曲登録されていました(2024年7月現在)。

井上 少ないなぁ(笑)。大先輩の筒美京平さんから「1000曲まではいい。その次の1000曲が大変なのよ」と言われたことがあるのですが、京平さんから見たらまだまだということになりますね。

――ちなみに筒美さんは2755曲でした(笑)。

井上 僕はもともと職業作家を目指していたわけではないですけど、京平さんや馬飼野康二さんなど、僕より一世代上の方たちはすごい数を書かれているじゃないですか。残した作品数や功績が違いすぎて自分のことが恥ずかしくなります。

――井上さんが登場した頃からバンドやシンガーソングライターが主流となって職業作家のフィールドが格段に縮小しましたから、単純な比較はできないと思います。

井上 確かに僕らの世代はコンペが主流で、作家の位置づけが変わったような気がします。“先生”という感じでもないですしね(笑)。

――かつては作家を決めて発注していたのが、80年代後半くらいからコンペが多くなっていったと聞きます。

井上 僕は曲を提出する前に自分でボツにすることも多いんです。納得できる曲を作れなかったときは参加しないので採用率は割と高いんじゃないかな。ちゃんと計算したことはないですけど(笑)。長年やってきていちばん苦痛なのは自分でダメな曲が分かっちゃうこと。若い頃はディレクターさんからダメ出しされると「分かってねぇな」と思っていたんですけど、今は人のせいにできないから、そこが悲しいところです。かつて「新しい」と思ってやっていたことが、あとで「こりゃダメだ」と思うこともあって、そうなると実験がしづらくなる。キャリアを積むことはいい面と悪い面がありますね。

――共同作業なら「こうすればもっとよくなる」と言ってもらえる可能性があるのかもしれないですね。

井上 (AKB48などで仕事をしている)秋元康さんとは二人三脚で作り上げていますけど、最近はそういうことができるディレクターさんが少なくなりました。聞いた話によると、出した曲に対する評価もせず、「よかったら発売するのでお待ちください」と言われて、レコーディングがあったことさえ知らされないケースもあるらしいです。AIが曲づくりをするようになったら、気に入らなければ捨てちゃえばいいということにもなりかねませんが、僕はそういう仕事はしたくない。そう言えるようになったのは、自分のスタイルで40年続けてこられたからだと思います。

――ここからは音楽的なキャリアについて伺います。最初は6歳から習い始めたクラシックピアノということになりましょうか。

井上 そうですね。母親に言われて始めたのですが、小学3年のとき、サミー・デイヴィス・ジュニアが洋酒のCMでスキャットを歌っている姿に衝撃を受けてジャズに興味を持ちました。父親に連れられてジャズのコンサートに行くうちに自分でもやってみたくなって、小学4年で学校の先生が作った小学生だけのビッグバンドに参加したんです。その先生はスパルタ指導で、毎日暗くなるまで練習していましたが、その甲斐あって全国吹奏楽コンクールで優勝。結果が出たことが嬉しくて、その頃から「音楽を一生の仕事にしたい」と考えるようになりました。音楽の楽しさと厳しさを教えてくれた駒形裕和先生との出会いがなかったら、今の自分はありませんね。

――その後、井上さんは中学生5人で結成されたテクノバンド「コスミック・インベンション」に参加されます。

井上 小学校のビッグバンドでドラムを担当していた子のお父さんが楽器メーカーの社長で、当時出始めたシンセサイザーの宣伝用に作られたのがコスミック・インベンションでした。要は子供でも弾けることを訴求したかったわけです。当時、榊原郁恵さんの「ROBOT」(80年)のバックバンドでいろんなテレビ局に出演していたのですが、NHKでは出演者は必ずオーディションをするという流れがあって僕たちも参加したんですけど、たまたまそのオーディションを見ていた近田春夫さんが「面白いバンドがいる」と僕達を芸能事務所に紹介してくださったそうで、それがきっかけでビクターからデビューすることになりました。

――デビュー曲は「YAKIMOKI」(81年)で井上さんはリードキーボード。前年12月にYMOの武道館公演で前座を務めたことも話題となりました。

井上 最初はデモ演奏をするインストバンドとして、デパートの屋上などでジャズを弾いたりしていました。でも段々と歌ものが増えてきて、デビューしたらアイドルっぽい路線になって。僕がやりたかった方向性ではなかったので、バンドにいる意味を見出したくて曲づくりに傾注するようになったんです。生意気にも「自分が作った曲で勝負したい」と。

――アルバム『COSMORAMA』(81年)には井上さんが作詞や作曲を手がけた作品も収録されていて、作詞作品ではリードボーカルも務めています。

井上 コスミックのプロデューサーはブルー・コメッツにいらした小田啓義さんで「ビーバー(バンドにおける井上の愛称)が作るんだったら力になるよ」とおっしゃって、いろいろと教えてくださいました。ミュージシャン出身で、ご自分でも曲を作る方だから気持ちを理解してくれたんですね。バンドは途中で脱退してしまいましたけど、このときの経験がAKB48プロジェクトに役立っています。人が書いた曲を歌う歌い手の気持ちが分かるようになりましたから。

――脱退後はどういう活動をされたのでしょう。

井上 バイトをしながら曲づくりをする日々でした。目標は自分の曲を自分で歌うアルバムを作ることだったので、コスミックの担当ディレクターだった田村充義さんのところへ通って様々な助言をいただいて。でもバイトに追われていると曲を作る時間がなくなりますから、「なにか音楽の仕事はありませんか?」と田村さんに訊いたんです。

――それが小泉今日子さんのアルバムに収録された作家デビュー作「Someday」(85年)に繋がったわけですね(→前編参照)

井上 作家の仕事は自分のアルバムを出せるまで、なんとか食いつなぎたいという不純な動機から始まったんです(笑)。

――10代の作曲家として注目された井上さんは87年に全作曲を手がけたソロアルバム『JAZZ』をビクターからリリースします。

井上 演奏には日本が誇るビッグバンド「シャープス&フラッツ」をはじめ一流ミュージシャンが参加してくれて豪華な仕上がりとなりました。20歳そこそこのアーティストのファーストアルバムとしては誇れるものができたと自負しています。

――アーティスト活動と並行して、87年は田原俊彦「KID」、小泉今日子「Smile Again」など、提供曲が次々とトップ10入りを果たします。「KID」は井上さんのアルバム『JAZZ』に収録された「赤と金のツイスト」の詞とタイトルを変えた楽曲でした。

井上 その頃、ビクター宣伝部から独立した方が設立したコンポジラという事務所の第1号作曲家になったのですが、それからは誰にも会わず、作ったデモテープをひたすらマネージャーに渡していました。あるとき「マイナーのアップテンポで来週までに3曲書いて」と言われて「3曲も使ってくれるんですか!?」と喜んだら、そのなかでいい曲があれば採用するという意味で(笑)。最初のうちはそういうやり方も知らなかったんです。

――88年には荻野目洋子「スターダスト・ドリーム」と光GENJI「Diamondハリケーン」でチャートの1位を獲得。その活躍もあって銀座音楽祭で作曲家賞を受賞されています。

井上 作家として忙しくなり始めた頃、「1位」と「賞」を獲ったらやめようと考えていました。後年、アーティストとしてインタビューを受けて「一時期、作曲家としても活動していたそうですが、どんな曲を書かれていたんですか」と訊かれたとき、みんなが知っているような曲名を挙げたいという想いがあったからです。それが思いのほか早く実現して、作家としての活動をやめる理由ができたんですけど、現実はそうならず、相変わらず1日3曲ペースでデモテープを作り続けて。

――ヒットを出した作家には発注が殺到しますから、そう簡単にはやめさせてくれませんよね。

井上 とはいえ、その間も自分のための曲づくりは続けていました。「作家として売れてるからいいや」とか「疲れているから」と言って、空いた時間で遊ぶ選択肢もありましたけど、自分がやりたい音楽とも向き合わなければ、頼まれて作るもののクオリティが落ちてしまう。作家にあぐらをかいたら絶対に行き詰まるし、それでは音楽を嫌いになってしまうと思っていたんですね。それでも自分をアーティストとして考えてくれる人は少数派で、多くは「早く書いてよ」みたいな感じでした(苦笑)。

――そういった状況はいつまで続いたのでしょう。

井上 作家の仕事に追われて先方の注文に合わせていくうちに、自分が本来作りたいものとは違うと感じることが多くなりました。それで「これからは自分の好きなことだけをやろう」と考えて作家事務所から独立したわけです。そのタイミングで依頼されたのが、前編でもお話しした「ブルーウォーター」(90年/森川美穂)で、ここから僕の第2期が始まります。

――言われるまま作るのではなく、主体性を持って創作し始めたと。その第1弾がヒットして手応えを感じたのではないですか。

井上 思うように作った曲がヒットしたのは歌い手がなんでも歌いこなせる森川美穂さんだったからだと思います。そういうアーティストと出会えるのは稀なことなので、ラッキーでしたね。第2期では最高のデモテープを作るために最高の機材を揃えました。デモテープでは自分が歌うのでマイクもいちばんいいものにして。でもそれをプロデューサーに渡して歌い手が決まると、その人のためにキーや歌詞が変わって、最初に作ったものとは別のものになる。人に差し上げたものと、当初作ったデモテープはおのずから違うわけですが、僕の場合は作家40周年であると同時に、自分が納得するデモテープを作り続けた40年でもありました。世に出たのは一部なので、完成したデモテープの数は遙かに多いです。

――80年代後半のバンドブームを経て90年代は小室哲哉さんや小林武史さんなど、レコード会社に属さない外部プロデューサーが活躍する時代となりました。制作環境の変化はありましたか。

井上 僕が作家の仕事を始めた頃からコンペは行なわれていましたけど、段々と合否連絡だけが来るようになっていきました。「こういうのはできないか」と相談されれば、こちらもいろいろなタイプを持っていけるんですけど、おそらく何をどうすればいいか分からないまま発注する人が増えていったんでしょう。今思うと「僕にプロデュースさせてください」と言えばよかったのかもしれないけど、小室さんが出てくるまではそういうシステムがなかったですからね。

――小室さんがプロデュースした楽曲がチャートを席巻したのは94年以降のことで、それまでは作曲家として関わった作品がほとんどでした。

井上 コンペで小室さんと競り合うこともありましたよ。90年代のコンペはだいたい顔ぶれが決まっていて、中崎英也さん、都志見隆さん、織田哲郎さんに僕というパターン。ディレクターさんのなかにはコンペ相手のデモを聴かせてくれる方がいて、「カッコいいけど、歌うにはちょっと難しいですかね」と感想を言ったら「じゃあ、歌いやすいのを作ってきてよ」と言われたこともありました。僕のメロディは分かりやすいものが多かったので(笑)。

――冒頭でおっしゃった、コンペに出す前に「これはダメだ」と判断する基準はどこにあるのでしょうか。

井上 自分の曲は何十回も流すから聴き慣れているじゃないですか。でも何か別の作業をしているとき、その曲で「あっ」と思えることがあるんですよ。それがあるかないかですね。

――フックがあるかどうかだと。何もないまま流れていってしまう曲はダメなんですね。

井上 そうです。「いいな」と思うところでは心が動く。それはサビでも出だしの音でもいいんですけど、そういうアテンションがあることが大事なんです。どんなに時間をかけて作ってもスーッと流れて行ってしまう曲や、「難しいけど、よく聴いたらいいクオリティですね」みたいな曲は自分の基準ではNGなんです。

――井上さんは2007年以降、AKB48のメインコンポーザーとしてミリオンを連発。7月に発売された彼女たちの最新作「恋詰んじゃった」も週間1位をマークするなど、昭和・平成・令和のすべてでシングルチャートのナンバーワンを獲得しています。傍目には順調そのものに見えますが、不調を感じた時期もあるのでしょうか。

井上 仕事がないときもありましたよ。でもなぜか「自分は大丈夫。できるときはできるから」というヘンな自信があって(笑)。近田春夫さんが「ヨシマサには仕事依頼は殺到するだろうけれど、書きすぎちゃ駄目だよ」と理由は言わずとも意味深におっしゃってくださったことは今でも忘れていません。近田さんは僕と同じく編曲までご自身でやられる方で、細部までこだわって決して流れ作業に仕事を任せない方です。そうなると1曲を仕上げるためにかかる時間は作曲だけに比べると、どうしても3倍4倍とかかります。僕の場合はボーカルディレクションとミキシングエンジニアもやっていますので、楽曲数や効率だけを考えることがないように、耳に入ってくるサウンドを、たとえそれがトラックをソロにしなければ誰も分からないような箇所だとしても見過ごせないやり方ですから、近田さんの言葉はそういった意味でも心に残っています。

――「もう書けないかもしれない」とか「才能が枯渇したのではないか」と思われたことはないと。

井上 どうしようもない曲しか書けなくて「もうダメだ」と思うことは茶飯事です。でもだからと言ってやめようとは思わない。音楽以外の仕事ができるかって言ったらおそらくできないということもありますけど、そのあとで涙が出るほどいい曲が書けて「すごいな、俺」って思う経験を繰り返してきているからでしょうね。

――自分が納得できる音楽を自分の手で作りたい。その姿勢は曲づくりを始めた頃から首尾一貫しているように感じます。

井上 周囲はチャートの順位やセールス枚数を気にして「売れる曲を」と発注する人が多かったですけど、僕は「申し訳ないけど、それだったらほかの作家さんに」というスタンス。売れればなんでもいいやと考えたことは一度もありません。直しに関しても先方の要望通りにするのはイヤなんです。そこで自分を抑えることができたら作家として大きくなれたのかもしれませんけど、大抵許せなくて揉める。でも「ヨシマサじゃなきゃダメなんだよ」と言われると、「え~そうなんですか」ってイヤそうな顔をしながら意気に感じるタイプです(笑)。

――AKB48では秋元康さんから強いご指名があったと聞いています。

井上 彼女たちが秋葉原の劇場で活動を始めた頃、僕は米国に移住する準備をしていたのですが、秋元さんから連絡があって「公演のための楽曲が足りないからヨシマサに書いてほしい」と。上演だけでCD化されない曲は作家のもとに1銭も入らないんですけど、それをガチでやっている秋元さんが自分を必要としてくれている。そう思ったことがお引き受けした最大の理由です。

――秋元さんとはときにケンカをしながら曲づくりをされているとか。

井上 そもそも出会いからケンカでした(笑)。僕はとんねるずさんの「クラッキー」(94年)で初めて秋元さんにお目にかかったんですけど、いい曲にするために密なやり取りをしたかったのに、お忙しい秋元さんはなかなか現場に来られなくて。僕はお互いに注文を出し合える相手じゃないとリアリティのある楽曲はできないと考えているので、「こういうやり方はよくない」と意見したんです。そんなことを言う作家は初めてだったようで気まずい雰囲気になりましたが、そのあと秋元さんから「君の言うことは分かる。これからもっと一緒に仕事をしていこう」と言っていただいて。そのときに「僕はおカネを稼ぐ仕事として音楽をしているわけじゃないんです。生意気なことも言いますが、それでもよろしければ一生懸命やります」と言ったことをたぶん秋元さんは憶えていたんでしょう。AKB48はおカネにならないところからスタートしたんです。

――AKB48は初めて10万枚を突破した「10年桜」(09年)、初1位を獲得した「RIVER」(09年)、初ミリオンの「Beginner」(10年)、レコード大賞を獲得した「真夏のSounds good!」(12年)など、メモリアルな楽曲の多くは井上さんの作曲・編曲です。

井上 秋元さんは「これでいいや」というところが一切ない方で、僕も曲づくりでは妥協しませんから、AKB48に関しては納得している作品ばかり。だからそういう結果が出たことは嬉しいですね。逆にどんなにヒットしても納得できないところが一つでもあると眠れなくなるくらいストレスを感じます。

――そういうこともあるんですね。

井上 たとえばミックスが終わって納品したあと、ライブ用のステム(複数のトラックを1つのオーディオファイルにまとめたもの)を作るのですが、そこで「これは違うだろう」ということが発覚すると最悪な気分になるわけです。誰も気づかないようなことだったりもするんですけど、自分にとっては譲れないポイントがあって。作曲・編曲だけでなく、ミックスやマスタリングも自分でやるようになって、自分のスタジオまで作ってしまった背景には少しでもそういうことをなくしたいという想いがありました。

――2019年には大阪芸術大学演奏学科の客員教授に就任。同年、東京2020 聖火リレーの公式BGMも制作されました。これから音楽を志す若者に言葉を贈るとすれば。

井上 よく「死ぬ気でやればなんでもできる」とか「好きなことをすればうまくいく」と言いますけど、僕は人様にそこまでのことは言いきれない。ただ僕らの世界ではそういう部分は大事にしないといけないとは思いますね。「自分は好きじゃないけど、あなたたちのためにこういう曲を作りました」と言われても嬉しくないし、そういう曲は多くの人に響かないと思うからです。

――お話を伺っていると、ブラスバンド時代の駒形先生、コスミック・インベンション時代の小田さんや田村さん、そして長年タッグを組んでいる秋元さんと、井上さんの才能を認める方たちとの出会いが節目ごとにあったように思えます。

井上 人に恵まれたことは間違いありません。今回の40周年アルバム『再会 ~Hello Again~』にも多くの方が力を貸してくださって、そのリリースを記念した8月18日のトーク&ライブにも植草克秀さん、松山優太さん、村山彩希さんがゲスト出演してくれます。あらためて感謝の言葉しかありません。

――今冬にはアニバーサリー企画第2弾としてAKB48グループへの提供曲をセルフカバーしたアルバムを、さらに来年7月までにもう1枚のアルバムを発表予定と忙しい1年になりそうですが、最後に今後の目標をお聞かせください。

井上 いい曲を作り続けたいということに尽きますね。できれば、先日のパリ五輪でセリーヌ・ディオンが歌った「愛の讃歌」のような、シンプルで世界じゅうの人が口ずさめるメロディを書きたい。今回の周年企画で、いろんな人と再会したり、新しい人との出会いがあったりしたので、皆さんの力もお借りしながらスタンダードソングを作っていけたらと思っています。

ヒットメーカー・井上ヨシマサ作曲作品をまとめたプレイリスト公開中

『Yoshimasa Inoue Works(昭和編)』

プレイリストURL:https://playlist.kingrecords.co.jp/?post_type=playlist&p=1710

『Yoshimasa Inoue Works(平成~令和編)』

プレイリストURL:https://playlist.kingrecords.co.jp/?post_type=playlist&p=1711

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