COLUMN
COLUMN
SOUND FUJI×柴崎祐二『 Unpacking the Past vol.2』”J-Folk rock” インタビューpart1 ゲスト:曽我部恵一
当時の若者たちの間でムーブメントを巻き起こしたフォークは、次第にロック・シーンと融合し、
ニューミュージックという新たなジャンルを生むきっかけとなる。
邦楽を語る上で極めて重要な同時代の作品に関して、筆頭的存在であるベルウッド・レコードの音源を中心に、日本のフォーク/ロックにまつわるインタビューを実施。
文・構成:柴崎祐二 / 写真:松永樹 / 協力:渋谷BYG
2024.11.20
連載「Unpacking the Past」の二回目は、1972年の設立からわずか数年の間に、日本のフォーク/ロックを代表する名盤を数多く送り出した伝説的レーベル、ベルウッド・レコードを取り上げる。同レーベルは、その活動当時にはヒット曲もわずかで、必ずしも「主流」とは言い難い存在であったが、のちの1990年代を迎えると、国内インディーズ・レーベルの先駆けであるURCレコードの諸作などとともに、当時を知らない若者たちから「再発見」され、大きな支持を得るに至った。
そうした日本のフォーク/ロック再評価の流れを決定づけたキーパーソンの一人が、1990年代初頭にサニーデイ・サービスのフロント・マンとしてデビューして以来、常に旺盛な活動を続けてきたアーティスト、曽我部恵一だ。
後期ベルウッドのカタログのストリーミング配信開始にあわせ、改めて、この時代のフォーク〜ロック作品との出会いと、レーベルを代表する諸作の不朽の魅力について、じっくりと語ってもらった。
曽我部恵一とサニーデイ・サービスのルーツ
――ベルウッドの諸作についてのお話を伺う前に、洋楽邦楽問わず、曽我部さんがいわゆる「フォーク・ロック」的な音楽に触れたきっかけから教えていただけますか?
曽我部:はじめはニール・ヤングでしたね。それと、ザ・バンド。中学生くらいから、インディー系のギター・ポップとかと一緒にレコードで聴いていました。その頃は日本の音楽はほとんど聴いていなかったんです。香川から上京して大学へ入ってからですね、 日本のロックを聴くようになったのは。
――最初に聴いたのは何でしたか?
曽我部:はっぴいえんどの『風街ろまん』(URC・1971年)ですね。友達が貸してくれたんです。バッファロー・スプリングフィールドとかザ・バンドに影響を受けているらしいというのは知っていたんですが、だったらそっちを聴けばいいいいやと思って、それまではっぴいえんどは聴いたことがなかったんです(笑)。
それで、実際に聴いてみたら「全然違うじゃん!」と思いました。60年代の洋楽ロックみたいに団子状の音じゃなくて音質もすごくスッキリしているし、ドラムもベースもすごく太い。一曲目の「抱きしめたい」なんて、ブレイクビーツみたいに聴こえましたから。当時、レニー・クラヴィッツが人気を集めてましたけど、ああいうヒップホップの時代を通過した70年代ロック・リバイバルのサウンドに近いものを感じましたね。「これはすごい」と衝撃を受けちゃって、自分でも速攻でレコードを買いに行きました。
――「昔の音楽」としてではなくて、あくまでリアルタイムの感覚に照らしてグッと来たということですね。
曽我部:そうですね。よく覚えているのが、同じ年の夏休みに田舎に帰って、当時付き合っていた彼女の運転する軽自動車のカーステで『風街ろまん』を聴いたときのことです。入道雲が目の前に広がる田舎道を走りながら「夏なんです」を聴いたあの感覚……。ちょっとSF的な不思議さもあって、すごく印象に残っています。その夏はずっと『風街ろまん』を聴いてました。
――それで実際にサニーデイ・サービスもそういう音楽性へとシフトしていったわけですね。
曽我部:はい。当時は同時代のUKロックに影響を受けた曲をやっていたんだけど、「もう全部やめだ!」となって。
”若者たち”の音楽
――けれど、はっぴいえんどのあの独特なサウンドを取り入れるのって、かなり挑戦的なことですよね。演奏面でのハードルもなかなか高かったんじゃないかと思うのですが。
曽我部:それが、当時は「あ、これならできる」って思ったんですよね(笑)。フュージョンみたいなものは無理だけど、これなら俺達の演奏力でもできるんじゃないかと。決して上手さをひけらかすような演奏ではないじゃないですか。けど、細部まで突き詰めてやってみようとすると、もちろん出来ないんですけど(笑)。
そういう意味では、パンクの発想に近かったのかも知れないですね。パンクを初めて聴いた時「これなら自分たちにもできる」と思ってギターを持ってバンドを始めたんです。URCやベルウッドの音を聴いたときにも、これは「自分たちの音楽」なのかもしれない、と感じたんですよ。
――昔の音楽だけど、精神的な距離は近かった、と。
曽我部:演奏している人たちもディレクションしている人たちもみんな若者たちで、歌謡曲のように「大人」の手が入っていない感じがしたんですよね。自分にとって居心地の良い「風」がレコードの中に流れているのを感じ取っていたんだと思います。当時はSSTとかSUB POPみたいなアメリカのインディー・レーベルの音楽もよく聴いていたんですけど、自分にとって、そういうのに通じる雰囲気があったんです。
――確かに、サニーデイ・サービスの『若者たち』(MIDI ・1995年)と『東京』(同・1996年)からは、サウンドの類似以上に、そういうインディー・スピリット的な面での共鳴を感じます。
曽我部:(インタビュー場所の隣のテーブル席を指さしながら)『若者たち』を作る前に、ディレクターの渡邊(文武)さんと二人で、まさにこの席でアルバムの構想とかタイトルを考えたのを覚えています。忘れもしない記憶ですね。
――ここ渋谷BYGはサニーデイ・サービスの歩みにとっても重要な場所だったんですね。
曽我部:そうなんです。その後もライブの打ち上げでよく使わせてもらいまいましたね。エンケン(遠藤賢司)さんが常連で、よく連れてきてくれたんですよ。地下のライブスペースでも何度か演奏させてもらってますし。
はっぴいえんどは今ほど高く評価されていなかった
――思い返せば、1980 年代前半生まれの僕がURCやベルウッドのカタログに触れたのも、1990年代当時の曽我部さんたちの啓蒙があったからこそなんですよね。当時、東芝EMIからURCのカタログが一斉にCD再発されたタイミングで曽我部さんが選曲したコンピが出たり、ベルウッドのカタログも同時期に再発されたり。
曽我部:そうでしたね。ただ、僕らだけじゃなくて、あの時期は同時多発的にそういう志向のバンドが出てきたんですよね。みんな繋がっているわけじゃなかったのに、不思議と同じ時代に同じ音楽を再発見していく流れがあって。
――洋楽志向の渋谷系の「次」を探すムードが高まっていたというのもあったんでしょうか。
曽我部:うん、それもあったかもしれないですね。当時、僕らの少し上の世代がファンクとかソウルのレア盤を買いまくっていたんですけど、僕らみたいなもっと若い世代はお金が無くて、いわゆるフリー・ソウル系の名盤には手が出せなかったんです。けど、このあたりの日本のフォークやロックは当時はまだ安くて、1,000円しないような値段でほとんど揃えることが出来たんです。そういう経済的な理由もある気がしますね(笑)。
――今でこそ評価が定まって定番化しているものも沢山ありますけど、当時はまだまだ……。
曽我部:そう。僕らがはっぴいえんどを聴き始めた頃は、まだ今のように高く評価されていませんでしたからね。今みたいに、日本のロックといえばまずはっぴいえんどの名前が挙がる状況ではなくて。
――その頃はURCとベルウッドのカタログを並行して聴いていた感じですか?
曽我部:そうですね。URCが少しコアなテイストが強くて、片やベルウッドは洗練味があるイメージですかね。ベルウッドにはプロテスト・ソングもあまりないし、純粋なフォークというより、あくまで日本のフォーク・ロック系レーベルという印象があります。
ハードコアパンクの精神
――難しい質問かもしれませんが、ベルウッドのカタログで「これ!」という作品を一枚挙げるとすると何でしょうか?
曽我部:やっぱり、はちみつぱいの『センチメンタル通り』(1973年)かなあ。これはもう、自分が作ったんじゃないかなと思ってしまうくらい愛着がある一枚。なんというか、「こういうレコードを今聞いている」という意識じゃなくて、自分の心の中で楽団が演奏しているような感覚になるんです。リスナーとして、この部分のプレーがどうとか、ここの歌詞がどう思うとかそういう話じゃなくて、自分がそのままこのジャケットの中に入り込んでしまっている感覚というか。このアルバムが好きな人は、多分みんなそういう気持ちがあるんじゃないでしょうか。
――わかる気がします。
曽我部:このアルバムも、聴いていいた当時の自分の記憶と結びついているんです。夜中に眠れなくてこのレコードを聴いていたら、ちょうど「塀の上で」が流れている時に、その時に付き合っていた彼女が泣いていたのを覚えています。『センチメンタル通り』を聴いて、自分の過去の色んなことを思い出してふと淋しくなってしまったのかも……。
――しかし、これがバンド唯一のオリジナル・アルバムというのは、惜しいというか、なんとも儚い気持ちになります。
曽我部:そうですね。けど、「春一番」のライブ盤(『’73 春一番コンサート・ライブ』)に「こうもりが飛ぶ頃」と「煙草路地」の演奏が収録されているじゃないですか。プレ『センチメンタル通り』の時期にあたると思うんですけど、その頃の演奏もヤバい!
――グレイトフル・デッド的な演奏で、素晴らしいですよね。
曽我部:デッドよりももっとアシッド感が強いくらい(笑)。多分(鈴木)慶一さん達はデッドの演奏を研究した上でああなったんだと思うんですが、出来上がったものからは、やっぱり東京の、それも羽田のあの辺りの匂いがするんですよね。
――サイケデリックという意味でいうと、南正人さんの『南正人ファーストアルバム』(1973年)もスゴい作品ですね。
曽我部:細野(晴臣)さんや大滝(詠一)さんのはっぴいえんどチームを別格とすると、「ベルウッドでもう一枚挙げて」と言われたらこれになりますね。2017年のベルウッド45周年ライブに出させてもらったときにも、ここに入っている「紫陽花」をカバーさせてもらいました。(見開きジャケットを眺めながら)これ、見てくださいよ。この古い家で録っているんですよね。
――吉野金次さんが録音機材を八王子の南さん宅に持ち込んで、キャラメル・ママがバックを担当して……。
曽我部:ばっちりハマった音になっているでしょう。いやあ、すごい。家の前にタオルが干してあったりするでしょう。生活感むき出しで最高。ボロボロのテーブルを出してみんなで食事している風景。確実にこういう環境だからこそ出てくる音楽なんですよね。俺達はスタジオなんかで録らないよ、自分たちの好きなところで音楽を作るんだよっていうメッセージを感じます。
――自宅録音って今でこそ当たり前かもしれないけど、当時は画期的なことだったわけですよね。
曽我部:そう。アメリカのハードコア・パンクの精神もつまりそういうことだと思うんですよね。大層なスタジオなんて使わなくても、自分たちが音を出せる場所ならどこでもいいじゃんっていう。『HOSONO HOUSE』(1973年)とこれは、日本のそういう試みの先駆けですよね。今と違ってでっかいレコーダーも持っていかなくちゃならないし、いろいろ大変だったはずだけど。
――曽我部さんご自身も、かならずしもプロフェッショナルな録音環境にこだわらない作品作りを積極的にされていますよね。このあたりの作品は、そういう面でも大きなインスピレーション源になっていたりするんでしょうか?
曽我部:もちろんです。自宅録音も良くしますし、子供が赤ん坊だった時代に録った曲には泣き声がそのまま入ってたり(笑)。ライブで歌っているミュージシャンならみんなそう感じると思うんですが、家で弾き語りをするときが一番上手く歌えるんですよ。自分の居場所で鳴らす音こそが、一番大事な音になると思っているんです。
常に心の神棚にある作品
――片や、当時はまだ珍しい豪華アメリカ録音となったはっぴいえんどのサード・アルバム『HAPPY END』(1973年)についてはいかがですか?
曽我部:『風街ろまん』の後に『はっぴいえんど』(URC・1970年 通称「ゆでめん」)を聴いて、その後に『HAPPY END』を聴いたのかな。最初は、いわゆる「B面曲」のようなトラックが多いなという印象でした。『風街ろまん』のように、お互いをぶつけ合うというより、それぞれが持ち寄った曲を背伸びせずに音盤化したようなイメージで。
――既に解散が決まっている中で敢行された録音だった、というのもそういう印象に繋がっているのかもしれませんね。
曽我部:そうですね。これを作ることがベルウッドというレーベルにとってはすごく重要なことだったんだろうなと思います。
――制作ヘッドである三浦光紀さんが当時抱いていたであろう強い意志を感じますね。
曽我部:そうそう。だからこれはバンド発っていうよりもレコード会社主導の作品でもあって。アーティストのクリエイティビティよりも、レーベルのクリエイティビティが伝わってくるアルバムですね。そういう視点で改めて見てみると、ジャケットのレディメイドな感じとかも、かえってカッコいい。ファーストとセカンドのようにほとばしる何かがあるわけじゃないけど、各作曲者の個性が出ていると思うし、聴けば聴くほど味わいが感じられるアルバムですね。
――大滝詠一さんのファースト・アルバム『大瀧詠一』(1972年)はいかがですか?曽我部さんは長年このアルバムにも入っている「それはぼくぢゃないよ」をカヴァーされていますよね。
曽我部:これはもう、常に心の神棚に飾ってます。大好きです。
――このアルバムは、先程の話の延長線上にあるというか、プロフェッショナルなスタジオで録られているにせよ、大滝さんの他の作品にはないプライベート感や親密性を感じられますよね。後のコンセプトメイカー〜プロデューサー的な側面よりも、「シンガーソングライター:大瀧詠一」の顔が浮かんでくるというか。
曽我部:うんうん。これを聴くと大滝さんのことがよくわかる気がするんですよ。僕だけかも知れないけど、この人はこういう食べ物が好きで、こういう時間帯が好きで、こういう人なんだな、というのが理解できるような気がして。突き詰めれば、音楽を聴く理由ってそこだと思うんです。レコードの中に、確かに「人」が居るのがわかる、っていう感覚。逆に言えば、すごいレコードっていうのは、必ずそういう風に思わせてくれる。
大滝さんのファンの方って、「ここのフレーズがこういうアーティストのあの曲の引用で」みたいな話をよくするじゃないですか。けど、僕はそういう部分には全然興味がないんです。大滝詠一という人が確かにここにいて、今歌っていてくれている……それが自分の心の中でわかる、そのことの方が僕にとっては大切なんです。
――よくわかります。
曽我部:「その人が聴こえてくる」という意味では、あがた森魚さんの『乙女の儚夢』(1972年)も絶対外せないですね。
――はっぴいえんど等のアメリカン・ロック寄りのサウンドに親しんでいる後年世代のリスナーからすると、この時期のあがたさんの世界観の特異さにはびっくりするかもしれませんね。
曽我部:そうですね。昭和のあの時代に、作り込まれた大正ロマンの世界をやるっていう……。令和の時代にも昭和レトロみたいな音楽はあるけど、ここでのあがたさんの入り込みぶりはやっぱり生半可なものじゃないですよ。聴く方も自然とそこへ引きずり込まれてしまう。はちみつぱいの演奏はもちろん、林静一さんの絵をはじめアートワークも素晴らしいし、付属のブックレットにもものすごく沢山の要素が詰め込まれていて。特に興味深いのが、この時期は(イギリスのフォーク・ロック・バンドの)フェアポート・コンヴェンションから影響を受けていたらしいということ。
――それとドメスティックな文化の記憶を融合させるという。
曽我部:そう。あがたさんの中には、確固とした構造的なアイデアがあったんでしょうね。自分の心のなかにしかない世界を徹底的に追い求めて、こうやってモノにするっていうことが、「レコードを作る」ということなんだと教えてもらいました。もちろん、松本隆さんがプロデュースを務めた次作『噫無情(レ・ミゼラブル)』(1974年)も素晴らしいですよね。
インタビューPART2 2024/12/4 公開
PLAY LIST
曽我部恵一セレクト 日本のフォーク・ロックの世界を堪能する”ベルウッド・レコード”
https://UPTPKeiichiSokabe.lnk.to/knIB9SyP
1.それはぼくぢゃないよ/大瀧詠一(『大瀧詠一』収録)
2.大道芸人/あがた森魚(『乙女の儚夢』収録)
3.とめ子ちゃん/ごまのはえ(『春一番コンサート・ライブ!』収録)
4.塀の上で/はちみつぱい(『センチメンタル通り』収録)
5.紫陽花/南正人(『南正人ファースト』収録)
6.プカプカ/西岡恭蔵(『ディランにて』収録)
7.犬/友川かずき(『桜の国の散る中を』収録)
8.負ける時もあるだろう/三上寛(『負ける時もあるだろう』収録)
9.僕の倖せ/はちみつぱい(『センチメンタル通り』収録)
10.東京ワッショイ/遠藤賢司(『東京ワッショイ』収録)
11.踊ろよベイビー/遠藤賢司(『春一番ライブ’74』収録)
12.あしたはきっと/いとうたかお(『いとうたかお』収録)
13.鎮痛剤/高田渡(『系図』収録)
14.恋は桃色/細野晴臣(『HOSONO HOUSE』収録)
15.氷雨月のスケッチ/はっぴいえんど(『HAPPY END』収録)
M7,M8は12/4配信解禁予定!
■プロフィール
曽我部恵一 そかべけいいち
1971年8月26日生まれ。乙女座、AB型。香川県出身。 ’90年代初頭よりサニーデイ・サービスのヴォーカリスト/ギタリストとして活動を始める。 1995年に1stアルバム『若者たち』を発表。’70年代の日本のフォーク/ロックを’90年代のスタイルで解釈・再構築したまったく新しいサウンドは、聴く者に強烈な印象をあたえた。 2001年のクリスマス、NY同時多発テロに触発され制作されたシングル「ギター」でソロデビュー。 2004年、自主レーベルROSE RECORDSを設立し、インディペンデント/DIYを基軸とした活動を開始する。 以後、サニーデイ・サービス/ソロと並行し、プロデュース・楽曲提供・映画音楽・CM音楽・執筆・俳優など、形態にとらわれない表現を続ける。
http://www.sokabekeiichi.com
柴崎祐二(しばさきゆうじ)
1983年、埼玉県生まれ。評論家/音楽ディレクター。2006年よりレコード業界にてプロモーションや制作に携わり、多くのアーティストのA&Rを務める。単著に『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす 「最文脈化」の音楽受容史』(イースト・プレス 2023年)、『ミュージック・ゴーズ・オン~最新音楽生活考』(ミュージック・マガジン、2021年)、編著書に『シティポップとは何か』(河出書房新社、2022年)等がある。