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【白鳥英美子デビュー55周年記念】白鳥英美子×富澤一誠 スペシャル対談(前編)

1969年に芥川澄夫とポップ・デュオ“トワ・エ・モワ”を結成してデビューし、80年代からはソロでの活動も開始。アルバム制作を軸にCMや映画、TVドラマ、アニメなどへの楽曲提供の他、ナレーションやエッセイ出版など様々な分野で活躍し、幅広い世代からの支持を得ているシンガー、白鳥英美子。デビュー55周年を迎えた今年(2024年)10月19日には、渋谷・さくらホールにて『55周年記念コンサートHalf Century Memories ~追憶~』が開催され、加えてキングレコード時代のソロ作品とトワエモア作品の配信化も決定した。そんな彼女に音楽評論家・富澤一誠がスペシャルな対談インタビューを実施。これまでの音楽活動や今回配信化となった自身のアルバムのこと、そして今後についてなど【前編】【後編】と2回にわたってたっぷりとお話を伺った。

構成:東端哲也/写真:Ryoma Shoumura

2024.10.2

富澤:あらためて振り返ってみて、55年、いかがですか?
白鳥:デビュー当時からいろんなことが頭に浮かぶんですが、とにかくこんなに長い間、活動を続けられるとは夢にも思っていませんでした…まあ皆さん新人の頃は誰もが手探り状態だったと思うんですが、私の場合は特に“トワ・エ・モワ”を組んだこと自体が驚きで、芥川さんと「1年続いたらいいほうだよね…」なんて話してたくらい(笑)。それが55年も歌い続けているなんてびっくりです、信じられない! 長いようで短いって、よく言いますけど、でも着実にいろんなことをやり遂げながら歩んでこられたな、とは思います。

富澤:私が“トワ・エ・モワ”のデビュー曲「或る日突然」を最初に聴いたのは高校3年の頃だったでしょうか。ラジオから歌謡曲ともフォークとも何か違う、爽やかなかんじの曲が流れてきて、誰だろうって。当時は岡林信康や高石ともやなど(反戦歌やプロテスト・ソングを歌う)「関西フォーク」のブームがあって(メッセージ性が特に無かった)いわゆる「カレッジ・フォーク」はぬるい、みたいな風潮があったけれど、そういうのとも違った。
白鳥:確かに「カレッジ・フォーク」は裕福な大学生の趣味、みたいに思われていた時代がありましたね。

富澤:そうこうするうちに70年代になると吉田拓郎の「わたしは今日まで生きてみました…」(「今日までそして明日から」)みたいに、日々の生活の中で起こったことや個人的な心情を歌にするようなシンガー・ソングライターが出てきたりして…(※反体制、反商業主義こそがフォーク・ソングの本質だと考える硬派なフォーク・ファンからは大衆に迎合して軟弱な歌を歌っているとか、商業主義などと批判を浴びる)。そんな中で“トワ・エ・モワ”は「或る日突然」だけじゃなく、「空よ」(1970年)、「誰もいない海」(同)、「虹と雪のバラード」(1971年)と着実にビッグ・ヒットを飛ばしていった。
白鳥:私たち、もともとは音楽の趣向が異なる二人組なんです。芥川さんはカンツォーネとかスタンダード・ナンバーをソロで歌い上げたい、あの頃でいうと布施明さんみたいな路線を目指して四国から上京してきたタイプ。私はというと、アメリカのフォーク・ミュージック、ジョーン・バエズとかピーター・ポール&マリーとかが好きでずっと聴いていて、とあるオーディション番組で(米国の伝統的なフォーク・ソングである)〈朝日の当たる家〉を歌って合格してこの世界に入ってきた。それで芥川さんと“トワ・エ・モワ”を組むってなった時、二人でどんな曲をやろうかって話し合って閃いたのが、サイモン&ガーファンクルだった。男女でポール・サイモンとアート・ガーファンクみたいにハモったら美しいんじゃないかって。それでデビュー当時は結構、洋楽も歌ってましたね。フォーク大会とかで私たちがステージに登場すると、会場がザワザワして「フォークじゃないよね…」なんて声も囁かれたんですが、「七つの水仙」の弾き語りを始めたらシーンとなって、終わったら割れんばかりの拍手をいただいたのを憶えています。政治的な時代だったけれど、私たちは拳を振り上げて主張するよりも歌で何かを表現できればいいやと思っていたから…

富澤:つまり音楽重視だったんですね。
白鳥:そう! 洋楽に負けないジャパニーズ・ポップスを…なんて高い目的を掲げていたわけではなかったんですが、それでもいろんなタイプの楽曲にチャレンジしました。そんな風にしてそれなりにヒット曲にも恵まれましたが、最終的にはそれぞれの意見の違いや音楽性の違いなどもあって4年で解散に。よく「たった4年? そんなに短かったの?」ってよく言われるんですが。

富澤:1973年に解散…かぐや姫の「神田川」が大ヒットした年ですね。翌1974年には山本コウタローとウィークエンドが「岬めぐり」でデビューし、グレープの「精霊流し」やNSPの「夕暮れ時はさびしそう」が流行ったりして、世の中は抒情派フォーク全盛期。井上陽水の一大ブームもあってフォークは社会的な歌から個人的な世界へ。もしあのまま“トワ・エ・モワ”を続けていたら、まだまだやれたと思うんですが…本人は次に何をするか見えていたんですか?
白鳥:いいえ、解散によって私の中ではもう完全に終わっていたんです。保育学校で学ぶために願書も出していましたし。別に歌わなくてもいいやって。

富澤:その後、ソロ活動を開始する前に“鴉鷺(あろ)”というユニットを結成して音楽活動に復帰するわけですが…
白鳥:順を追って話すと保育学校を終えて、1975年に結婚して先ず渡米しました。日本での事を1回チャラにして心機一転したかったのと、彼もベーシストなので向こうの音楽シーンに興味があって。当時アメリカには“ニューフロンティアズ”から“EAST”に改名して全米デビューも果たした瀬戸龍介さんがいて、瀬戸さんが新しいバンドを組むので主人のベースが必要だからって、一緒に活動することになったんです。私はそのバンドには参加してないけど、彼らにくっついてまわってた。ある時、瀬戸さんに「英美子も歌ってみる?」って誘われて、レストランみたいなお店のステージだったんですが、せっかくだから日本の曲を歌おうと思い「中国地方の子守唄」をギターで弾き語りしたんですね。そうしたら最初は食べながらテーブルでカチャカチャとやってたお客さんが、私が歌い始めると潮が引くみたいにさぁーっと静まりかえって集中して聴いてくれた。終わったら拍手喝采を浴びて、それが“トワ・エ・モワ”の時とはまた違う感覚で、ああやっぱり歌っていいなと思って。

富澤:確か“トワ・エ・モワ”時代にも同じような経験をされてましたよね?
白鳥:でも私のことを誰も知らないアメリカ人の前で、しかも日本語で歌って受け入れられたことで、より音楽の持つ力を感じたというか、また歌ってみたいなって思えたんです。瀬戸さんのバンドでは和楽器なども取り入れていて、こういうサウンドも良いよねって主人と話したりして。それで帰国してから1977年に“鴉鷺”の活動を始めました。音楽的にとても充実したユニットで、1枚目のアルバムなんて今でも素晴らしいと思っています。でもやっぱり日本では“鴉鷺”のステージなのに「“トワ・エ・モワ”の曲を演奏して」って要求されることも少なくなくて、そういうのと戦いながら頑張ったのですが、4年目に“鴉鷺”を続けることに難しさを感じて終止符を打ちました。

富澤:それで1982年からアルバム『LADY』(徳間ジャパン)を発表して本格的なソロ活動に。
白鳥:同年公開の日中合作映画『未完の対局』の主題歌として8月にリリースしたシングル「愛は夢のように」の方が先…この曲、中国でも凄くヒットしたんです。ソロになってからもうフォークでもポップスでも日本の歌でも、自分が好きで歌いたいものは何でも歌おうって気持ちでした(笑)。CMソングもいっぱい歌いましたね。

富澤:「アメイジング・グレイス」もCM曲でしたね。
白鳥:CMで流すためだけに1コーラス、1分くらい録音したものが最初でした。英国のダイヤモンド会社De Beers(デビアス)が日本で放送するCMのために、讃美歌の「アメイジング・グレイス」を歌う歌手を探して各国でオーディションを開いて、これにはアメリカからサリナ・ジョーンズのような大物も参加していたみたいなのですが、何と私の歌唱が採用になったので凄く驚きました。そしてオンエアが始まると「今流れてる、あのダイヤモンドの曲を歌っているのは誰ですか?」とか「レコードはありますか?」っていう問い合わせが全国のレコード屋さんに殺到したらしいんです。それを聞きつけたキングレコードさんに「うちで出しませんか」ってお話をいただくんです。

富澤:でも最初は話を断ったそうですね。
白鳥:はい(笑)。「アメイジング・グレイス」のレコードを作りたいと言われて、でもシングル盤だったらそれっきりでその後が続かないなと思って。それで「これが一発ヒットして“はい、お終い”じゃ嫌なんです、やっぱりアルバムが作りたい」って提案しました。ちょうどその場にDe Beers CM担当のプロデューサーも居合わせて、その方がとても素敵なセンスの持ち主で「それいいんじゃないの「アメイジング・グレイス」の世界観を壊さないような選曲にしてさ、ロックの人がクラシックの曲をカヴァーするみたいに、古いけど新しいみたいな要素を取り入れてやってみたら(そしたらまたCMとかでも使えるし)」なんて横から後押ししてくださるので、それを聞いたキングの人も「じゃあアルバム作りましょう」って乗り気になってくれた(笑)。

富澤:それが1987年リリースのアルバム『AMAZING GRACE』に繋がったんですね。クラシックの名曲からポップス、トラッド・ソングという選曲もですが、全編英語での歌唱というのも大きなポイントです。

白鳥:敢えて日本語で歌わなかったのは、クラシックの名曲のようにどこかで耳にしたことのある心地良い旋律に「あれ? この英語の曲なんだっけ?」って興味を持ってもらえるかなと思ったから。その頃ちょうど、音符に詩をのせるのが天才的に巧い作詞家のリンダ・ヘンリックさんと親しくしていたことも大きかったですね。シンガーでもある彼女に自分で歌うような感覚でスムーズな英語の歌詞を書いてもらうことができたので。しかもレコーディングにも立ち会ってくれて、その場で発音を指導してくれた。

富澤:ここからまた新たな世界が広がっていきますね。
白鳥:自分ではまだそこまで考えていませんでした。とにかくこういう曲を歌える自分になれたのがただ嬉しくて、夢中でした。

富澤:続く1988年リリースの『美しき青きドナウ』でもクラシック、ポップス、トラッドからの選曲と英語歌唱というコンセプトが引き継がれます。

白鳥:曲選びでは随分と頭を悩ませました。しかもこのアルバムでは半分のトラックが世界屈指のコンサートホールであるウィーン・コンツェルトハウスで、ヨハン・シュトラウス・オーケストラと共演してレコーディングという快挙を成し遂げています。それで特に、有名なヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」の真ん中に新しいメロディを挿入して英語で歌うという試みに対して、果たして本場である“音楽の都”の彼らがどんな反応を示すのか、もう凄くドキドキしました。幸い、高橋千佳子さんという素晴らしいアレンジャーでピアニストの方が譜面を書いてくれて、現地でオーケストラの皆さんに説明もしてくれた。もちろん最初に楽譜を見せた時には、彼らが明らかに違和感を覚えているのがその表情からもわかったのですが、私が演奏に合わせて歌うと「おおー」っていう感じでしっかり弾いてくれて、終わったら「あの部分はヘンデルの曲みたいで面白かった」って好意的な感想もいただくことができたのでほっとしました。本当にウィーン・コンツェルトハウスは響きも夢のように美しい音楽の殿堂でした。小学生だった娘のマイカも一緒に連れて行くことができて、本物のウィンナ・ワルツを体験させてやれたのもよかった…彼女が「単なる3拍子じゃない」って発見して驚いていたのもいい想い出です。

富澤:それに対して1989年リリースの『BRAND NEW WORLD ~my favorite songs~』は全曲ロサンゼルス録音です。

白鳥:このアルバムにも想い出がいっぱいです。自宅にミキサーを持っているような人のところで音入れしたりして、レコーディングのスタイルがまさにアメリカンなかんじだったのも印象的。それにどのミュージシャンも最高で、こんな凄腕の人たちが私のレコードに参加してくれるんだって感動しました。特に嬉しかったのは、大好きなジョニ・ミッチェルの「Woodstock」が歌いたくて仮録音したテープを持っていったら、ギタリストがいいねって面白がってくれて、たった一度聴いただけなのに私のやりたいことを理解してくれてその10倍増しくらいの雰囲気で弾いてくれたこと。しかもその人のギターに合わせて一緒にブースに入って歌い、録音できた。ただただ全てに圧倒されましたね。

富澤:同じ1989年リリースの『Winter Wonderland』は5曲入りのミニ・アルバムです。

白鳥:ずっとクリスマス・ソング集が作りたかったのでその夢が叶った。定番曲だけでなく、アニメ『スノーマン』の名曲や私が書き下ろしたオリジナル曲まで入った贅沢な1枚です。

富澤:1990年リリースの『VOICE OF MAIN』はタイトルもいいですね。
白鳥:私の声を聴いて欲しい…という気持ちを込めて付けました。様々な人が書き下ろしてくれたオリジナル曲が多いのも特徴で日本語歌唱のものも何曲かあります。こちらは英国でのレコーディングも忘れられない。「KARISOLA」(M5)は女性シンガー・ソングライターのメイ・マッケンナさんの曲で、私がアルバムで聴いてこの曲が歌いたいと連絡したら、彼女わざわざスコットランドからレコーディング場所に来てくれて、しかも私のために新曲を書いてくださってコーラスでも参加してくれた。声も人柄も素敵な方でした。

富澤:自身で作曲したオリジナル曲もたくさん入った1991年リリースの『HELLO』には何か特別なエピソードはありますか?

白鳥:このアルバムでも何曲かアメリカでレコーディングしました。タイトル曲はライオネル・リッチーの大ヒット・ナンバーの日本語カヴァーですが、何とTOTOの元リーダーで伝説のドラマー(※その後1992年に38歳で死去した)ジェフ・ポーカロがドラムを叩いてくれた。スタジオにドラム・セットが運ばれてチューニングが始まって、本人はいつ来るんだろう…って思ってたらずっと待合室に座っていた物静かな人がそうだったんです(笑)。でもシンセとピアノで吹き込んだ音が流れて、それに合わせて彼が叩いた瞬間、ぞぞぞって鳥肌が立った。それほど音数は多くないのに、気迫を感じるというか巧い人ってこうなんだっていう有無を言わさないものがあった。そしたら彼から「これ歌が入るんだったら、僕はそれを聴いて叩きたい」ってリクエストがあって、私が歌い終わったら「この曲が日本語で歌われるのを初めて聴いたけど面白かった、ライオネル本人にも聴かせてあげたい」って言ってくれてその2回目のテイクでOK。心から感激しました。

 

【後編につづく】

 

白鳥英美子セレクトによる、白鳥英美子・トワエモワ作品プレイリストが公開!

キングレコード時代の全17作品(トワエモワの2作品を含む)が配信開始となったことを記念し、配信された楽曲の中から白鳥英美子 本人が選曲した15曲を収録したプレイリストを公開。
配信URL:https://king-records.lnk.to/Emiko_Playlist

ARTIST

  • 白鳥英美子

    EKIKO SHIRATORI

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